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マルタ・アルヘリチ : ミニ英和和英辞書
マルタ・アルヘリチ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


マルタ・アルヘリチ ( リダイレクト:マルタ・アルゲリッチ ) : ウィキペディア日本語版
マルタ・アルゲリッチ


マリア・マルタ・アルゲリッチ(Maria〔オリヴィエ・ベラミー『マルタ・アルゲリッチ 子供と魔法』p.11。〕 Martha Argerich〔Argerichの読み方については、「アルゲリッチ」が普通であるが、彼女の母国であるアルゼンチンがスペイン語を公用語としていることから、その読み方で「アルヘリッチ」、「アルヘリチ」などとも表記される。また、日本ではドイツ語読みで「アルゲリッヒ」「アルゲリヒ」と表記されていた時期もある。アルゲリッチ自身は来日時のインタビューで「どちらの呼び方が正しいのかよく聞かれるが、自分の先祖はスペインのカタルーニャ地方出身で、カタルーニャ語の読み方では『アルジェリーク』になる。しかし、自分としては『アルゲリッチ』が気に入っているので、これに決めている」という主旨の発言をおこなっている。なお映画『アルゲリッチ 私こそ、音楽!』では、三女のステファニーが自らの苗字をアルゲリッシュと発音している。〕〔アルゲリッチという苗字は珍しく、バルセロナに一族がいると言われるほか、クロアチアのアルゲリチという村にルーツがあるとの説もある。オリヴィエ・ベラミー『マルタ・アルゲリッチ 子供と魔法』p.10。〕, 1941年6月5日 - )はアルゼンチンブエノスアイレス出身のピアニスト。現在、世界のクラシック音楽界で最も高い評価を受けているピアニストの一人である。
== 経歴 ==
ブエノスアイレスの中産階級に生まれた。父フワン・マヌエル・アルゲリッチは経済学教授や会計士を務めて、〔オリヴィエ・ベラミー『マルタ・アルゲリッチ 子供と魔法』p.12。〕 その祖先は18世紀にスペインカタロニア地方からアルゼンチンへ移住していて、アルゲリッチはカタロニア出の姓である。母フワニータ(旧姓ヘラー)はベラルーシからのユダヤ系移民の二世だが、ユダヤ教からプロテスタントに改宗していた〔オリヴィエ・ベラミー『マルタ・アルゲリッチ 子供と魔法』p.15, 17。〕。
保育園時代に同じ組の男の子から「どうせピアノは弾けないよね」と挑発された時やすやすと弾きこなした〔オリヴィエ・ベラミー『マルタ・アルゲリッチ 子供と魔法』p.10-11。〕ことがきっかけで才能を見出され、2歳8ヶ月からピアノを弾き始める。5歳の時にアルゼンチンの名教師ヴィンチェンツォ・スカラムッツァピアノを学び始める。
1949年(8歳)、公開の場でベートーヴェンピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15を演奏した。翌1950年(9歳)にはモーツァルトピアノ協奏曲ニ短調K466バッハフランス組曲ト長調BWV816を演奏した。
ブエノスアイレス知事のサベテという人物がマルタの熱烈なファンだったため〔オリヴィエ・ベラミー『マルタ・アルゲリッチ 子供と魔法』p.57。〕、1954年8月13日、サベテの仲立ちにより大統領府でアルゲリッチ親子と会ったフアン・ペロン大統領は、マルタに留学希望の有無を尋ね、「フリードリヒ・グルダに習いたい」との申し出に従って、彼女の父を外交官に、母を大使館職員にそれぞれ任命し〔オリヴィエ・ベラミー『マルタ・アルゲリッチ 子供と魔法』p.58。〕、1955年初頭から一家でウィーンに赴任させた〔"People" April 07, 1980 "A Top Woman Pianist, Martha Argerich, Nearly Gave Up Her Steinway for Steno" By Fred Hauptfuhrer, Mary Vespa 〕。これに伴って家族とともにオーストリアに移住した彼女は、ウィーンザルツブルクで2年間グルダに師事した後〔当時グルダに恋をしていた、と自ら語っている。オリヴィエ・ベラミー『マルタ・アルゲリッチ 子供と魔法』p.57。〕、ジュネーヴマガロフマドレーヌ・リパッティディヌ・リパッティ夫人)、イタリアミケランジェリブリュッセルアスケナーゼに師事した。ウィーン時代、プエルトリコ出身の「最高にハンサムな男の子」を相手に処女を喪失したと自ら発言している〔オリヴィエ・ベラミー『マルタ・アルゲリッチ 子供と魔法』p.66。〕。
1957年ブゾーニ国際ピアノコンクール優勝。またジュネーブ国際音楽コンクールの女性ピアニストの部門においても優勝し、第一線のピアニストとして認められるものの、更にその後も研鑽を続ける。1959年には、ブルーノ・ザイドルフォーファーのマスタークラスを数回受講している。なお、絶対音感の持ち主ではなく、調性を正しく認識していないこともあり、聴衆の一人から「ト長調の前奏曲」の演奏を褒められても自分が弾いた曲のどれを褒められたのか判らず、考え込んだことがある〔オリヴィエ・ベラミー『マルタ・アルゲリッチ 子供と魔法』p.102。〕。
1960年ドイツ・グラモフォンからデビューレコードをリリースする。22歳のとき作曲家で指揮者のロバート・チェンと最初の結婚をするが、1964年、長女リダの出産前に離婚。
1965年ショパン国際ピアノコンクールで優勝し、最優秀マズルカ演奏者に贈られるポーランド放送局賞(マズルカ賞)も受賞した〔1965年の第7回ショパン国際ピアノコンクール出場時の映像の一部を観ることができるが、第1次予選での「英雄ポロネーズ」作品53の映像は、客席側から撮影されているフィルム以外は、全てコンクール後に撮影された時の物が使われている。正面(及び手のアップ)から撮影されたフィルムは音とアルゲリッチの動きと合致していない部分がほとんどであること、また、コンクール時アルゲリッチが使用したピアノはスタインウェイ社製であったにもかかわらず、ベヒシュタイン社のピアノを弾いているという事が挙げられる。スケルツォ第3番の映像もコンクール後撮影された時のフィルムであり、第2次予選での実況録画・録音ではない。〕。
1969年、1957年に出会った指揮者のシャルル・デュトワと結婚し(2度目)、娘をもうけるが、来日の際に夫婦喧嘩となり、アルゲリッチだけが帰国し離婚。後にピアニストのスティーヴン・コヴァセヴィチと3度目の結婚。
ソロやピアノ協奏曲の演奏を数多くこなすが、1983年頃からソロ・リサイタルを行わないようになり室内楽に傾倒していく。ヴァイオリニストのクレーメルイヴリー・ギトリスルッジェーロ・リッチ、チェリストのロストロポーヴィチマイスキーなど世界第一級の弦楽奏者との演奏も歴史的価値を認められている。
1990年代後半からは、自身の名を冠した音楽祭やコンクールを開催し、若手の育成にも力を入れている。1998年から別府アルゲリッチ音楽祭1999年からブエノスアイレスにてマルタ・アルゲリッチ国際ピアノコンクール2001年からブエノスアイレス-マルタ・アルゲリッチ音楽祭2002年からルガーノにてマルタ・アルゲリッチ・プロジェクトを開催している。
受賞歴にはフランス政府芸術文化勲章オフィシェ(1996年)、ローマ・サンタ・チェチーリア協会員(1997年)、グラミー賞(1999年、2004年、2005年)、ミュージカル・アメリカ誌・Musician of the Year(2001年)、第17回高松宮殿下記念世界文化賞(音楽部門、2005年)、旭日小綬章(若手音楽家の育成等に寄与したとして、2005年)などがある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Martha Argerich 」があります。




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