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マルタ護送船団の海戦(マルタごそうせんだんのかいせん、Battle of the Malta Convoy)は、1800年2月18日、フランス革命戦争中に、のさなかに起きた海戦である。この時マルタは1年半もの間、シチリアのパレルモを基地とするホレーショ・ネルソンが総指揮を執る、イギリス海軍の戦隊により海上封鎖されており、陸上ではイギリス、ポルトガル、そしてマルタ非正規兵が、フランス軍の駐屯する首都バレッタを包囲していた。この1800年2月、ナポリ王国政府は、包囲軍のポルトガル兵を自国の兵と替え、このナポリ兵たちは、ネルソンとキース卿ジョージ・エルフィンストーンと共にマルタに派遣された。彼らが着いたのは2月17日のことだった。フランスの駐屯隊は、1800年が明けて間もない時期には、かなり食糧が不足しており、駐屯隊による実効支配をマルタで維持するため、なりふりかまわぬ試みがなされ、バレッタに、食糧や武器や援軍を輸送するための、准将下の船団がトゥーロンで編成された。2月17日、海岸線沿いにイギリスの封鎖戦隊をかわすことを期待して、このフランス船団は南東からマルタに接近した。 1800年2月18日、イギリス艦「アレグザンダー」の見張り役がフランスの船団を発見し、ネルソン戦隊の残りの艦を連れてこの船団を追った。この時エルフィンストーンはバレッタにいなかった。大部分のフランス艦はイギリスの追跡を引き離したが、1隻の輸送艦が追い抜かれて降伏を余儀なくされ、一方でペレーの旗艦である「」は、自分よりもっと小型のフリゲート艦である「」に妨害されていた。砲撃が始まった時、「サクセス」はかなりの損害を受けたが、、ペレーは致命傷を負った。この交戦によるフランス船団の遅れから、イギリス主力戦隊は船団に追いつくことができ、いちじるしく数の上で劣った「ジェネリュー」は降伏した。ペレーは負傷してほどなく亡くなり、物資はどれ一つとしてマルタに届かなかったが、フランス駐屯隊は、形勢がイギリス有利となって行く中でその後7か月間持ちこたえ、1800年9月4日に降伏した。 ==歴史的背景== フランス革命戦争中の1798年5月、将軍ナポレオンの指揮の下、フランス遠征軍がトゥーロンから出港した。地中海を横切り、マルタを6月上旬に占領してさらに南をめざし、7月1日にエジプトに上陸した〔Bradford, p. 187〕。アレクサンドリア近くに上陸したナポレオンは、ここを攻略して奥地へと進み、アジアにおける作戦計画の第一段階を完了した。フランソワ・ブリュイ・デガリエの指揮下にあるフランス艦隊は、アレクサンドリアの北西20マイル(32キロ)にあるアブキール湾に投錨し、陸軍の上陸を支援するようにとの命令を受けた〔James, Vol. 2, p. 159〕。8月1日、投錨していた艦隊は、ネルソン少将指揮下の艦隊の出現に不意打ちを食らった。この後にナイルの海戦が起こり、フランスの13隻の戦列艦のうち11隻、そして4隻のフリゲート艦のうち2隻がそれぞれ壊されまたは拿捕された。ブリュイは戦死し、残りの乗員は翌8月2日にどうにか湾の外に出て、分裂してクレタ島周辺海域へ向かった〔James, Vol. 2, p. 223〕、ケルキラ島へ北進した「ジェネリュー」は、航行中のイギリスの4等艦「」と交戦し、これを拿捕した〔Clowes, p. 515〕。その他の艦、「ギョーム・テル」と、2隻のフリゲートの艦長、ピエール=シャルル・ヴィルヌーヴと両准将は、西へ進んでマルタへ向かい、この島が包囲された正にその時に到着した〔Clowes, p. 374〕。 フランス支配下のマルタではカトリック教会が解体させられ、これが住民の間ではなはだしく不評を買っていた。1798年9月2日に、教会の財宝が競売にかけられていた時に、武装した反乱軍が、将軍指揮下のフランス駐屯隊を打ちのめし、駐屯隊は月末までに首都バレッタへと退却した〔Gardiner, p. 67〕。駐屯隊は約3000人の規模だったが、食糧の蓄えが限られており、本国から海上を経由して食糧を届けようとするも、港に停泊しているイギリスとポルトガルの戦隊によりかなりの制約を受けた。この海上封鎖は、シチリアのパレルモを拠点とする、今や男爵となったネルソンの指揮のもとにあり、直接には「アレグザンダー」の艦長であるが仕切っていた〔James, Vol. 2, p. 189〕。1799年を通じて、マルタは農作物の生産に不向きであること、地中海以外の海域での任務受諾による物資や部隊の不足、地中海西部での艦隊の出現などの様々な要因が、海上封鎖の士気を萎えさせた〔。しかし、駐屯隊へわずかながら食糧が届けられたにもかかわらず、ヴォーボワの駐屯隊にはだんだん飢餓と病気とが蔓延し始めた〔Clowes, p. 418〕。この年の終わり近く、ボールは包囲を指揮しているマルタ兵の援助のために上陸し、アレクサンダーの指揮は、自分の代わりに一等海尉のウィリアム・ハリントンに執らせた〔。 1800年の1月、もし食糧の再補給がなされないのなら、バレッタは降伏の危機にあることをさとり、フランス海軍はトゥーロンで船団を準備した。この船団は艦長の「ジェネリュー」〔Fonds Marine, p.239〕、20門のコルベット「」と「」、そして16門艦「」、そして2,3隻の輸送艦から構成されていた〔。この船団の指揮を取ったのは、ジャン=バティスト・ペレー准将だった。ペレーはその前年にアッコ沖で捕虜となり、仮出獄したばかりだった。ペレーはイギリス軍に見つかって妨害を受けないうちに、意図的に封鎖艦隊の間を縫って、南西からマルタ沿岸のバレッタに近づくように指示を受けていた。船団は2月7日に出港した。物資に加えて、船団は3000人近い駐屯隊への援軍も輸送していたが、駐屯隊の貯蔵食糧を補給するのであれば、援軍を送るのはそれを無効にすることであり、必要のないやり方だった〔Bradford, p. 245〕。 フランスが援軍を計画している間、イギリス海軍は、マルタに駐屯している500人のポルトガルの海兵隊を、フェルディナンド1世から支援された1200人のナポリの部隊と交替させた。ネルソンは当時、ナポリ王国の政治、特に駐ナポリのイギリス大使ウィリアム・ハミルトンの妻エマに利益をもたらす封鎖の任務を怠っており、ナポリ王国の護送船団と同行するように指示された〔Mostert, p. 365〕。援軍の派遣は、ネルソンの上官にして最高指揮官であり、旗艦「クイーン・シャーロット」に乗艦しているジョージ・エルフィンストーン中将により行われた〔Adkins, p. 66〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マルタ護送船団の海戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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