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マルヒフェルトの戦い()は、1278年8月26日に現在のオーストリア・ニーダーエスターライヒ州ゲンゼルンドルフ郡の都市デュルンクルトとイェーデンシュパイゲン近郊で起きた、ドイツ王ルドルフ1世及びハンガリー王ラースロー4世と、ボヘミア王オタカル2世との戦闘である。勝利したルドルフ1世は大きく勢力を伸ばし、ハプスブルク家がヨーロッパの有力家系に飛躍するきっかけを生んだ。 == 前史 == 1250年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が死去、息子のコンラート4世も1254年に亡くなりホーエンシュタウフェン朝は断絶、神聖ローマ帝国は大空位時代を迎え、カスティーリャ王アルフォンソ10世とイングランドの王族コーンウォール伯リチャードが立候補したが、どちらも国内事情で皇帝に即位出来なかった。 こうした中、1253年にボヘミア王に即位したオタカル2世は領土拡大に乗り出し、1251年にバーベンベルク家が断絶したオーストリアを獲得、バーベンベルク家の相続人マルガレーテと結婚した(後にマルガレーテと離婚、クンフタ・ウヘルスカーと再婚)。1260年にクレッセンブルンの戦いでハンガリー王ベーラ4世を打ち破りシュタイアーマルクも獲得、1268年にケルンテン公ウルリヒ3世と契約を結び、翌1269年にウルリヒ3世が亡くなったためケルンテンも相続した。 帝国におけるオタカル2世の勢力拡大に危機感を抱いた選帝侯は、スイスの弱小領主に過ぎなかったルドルフ1世をドイツ王に選出した。オタカル2世は自分に断り無くルドルフ1世を選出したとして、彼の王位を認めなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マルヒフェルトの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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