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マロツィア(Marozia、890年ごろ - 932年から937年)は、10世紀はじめにローマとローマ教皇国の実権を握った女性。父はローマの貴族テオフィラクト伯で、母はテオドラ。テオドラとマロツィアによる支配はポルノクラシーと呼ばれている。 ローマで最高の美女と言われたマロツィアは、教皇セルギウス3世の愛人となり、教皇の子供とされる男児(のちの教皇ヨハネス11世)を産んだ。のちにスポレート公アルベリーコ1世と結婚し、男児を産んだ(のちのアルベリーコ2世)。926年にアルベリーコ1世が死ぬと、トスカーナ侯グイードと再婚しようとするが、教皇ヨハネス10世に反対されたため、928年に教皇を逮捕させ獄死させた。グイードと2度目の結婚を行い、931年に自分の息子をヨハネス11世として教皇に就けたが、グイードはすぐに死亡する。マロツィアは「イタリア王」の称号を持つプロヴァンスのウーゴ (アルルのユーグ) と再婚しようとするが、ウーゴはグイードの異父兄(どちらも母親がロタール2世の娘ベルタ)であったため、再婚は禁じられていた。マロツィアは、グイードとウーゴは実の兄弟ではないとでっちあげ、932年に息子のヨハネス11世の祝福のもとにウーゴと3度目の結婚を行い、サンタンジェロ城を新居とした。 同年、息子のアルベリーコ2世はマロツィアとウーゴに反旗をひるがえし、サンタンジェロ城を攻撃した。ウーゴはローマから逃れたが、マロツィアは牢獄に囚われた。ウーゴは何度もローマを攻撃したが、アルベリーコ2世はローマを守り抜き、マロツィアは獄死した。 アルベリコ2世は20年間ローマを支配し、954年に死んだ。アルベリーコ2世の死後、その息子がヨハネス12世として教皇に就いた。マロツィアの息子だけでなく、孫も教皇となったことになる。 == 参考文献 == *藤沢道郎『物語イタリアの歴史Ⅱ』中公新書、2004年、p48-68 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マロツィア」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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