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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 交渉 : [こうしょう] 1. (n,vs) (1) negotiations 2. discussions 3. (2) connection
マンハセット交渉 (Manhasset I, II, III and IV)は、西サハラ紛争を解決するため、2007年から2008年にわたってニューヨーク州マンハセットにおいて、モロッコとサハラ人独立運動の代表であるポリサリオ戦線の間で行われた対話のことである。これらは7年間にわたり2者間で直接的な交渉を行ってきたが、この対話には近隣の国、アルジェリアとモーリタニアも出席した。 交渉の結果、「強い信頼の中で前提条件なしに直接交渉に入る」ことを促す、2007年4月30日の国連安保理決議1754に双方が同意した。また、決議は国際連合西サハラ住民投票ミッション (MINURSO)を2007年10月31日までに拡大することを要求した。 対話の最初のラウンドは2007年6月18日から19日に行われ〔Report of the Secretary General on the status of the negotiations on Western Sahara, 29 June 2007〕、双方が8月10日から12日に再開することに合意した。2回目は進展なしに終わったが、日時は定められなかったものの双方次のラウンドを持つことに合意した。2008年1月8日から9日の間に開催された最後のラウンドにおいて、双方とも「交渉のより強力で現実的な段階に入ることの必要性」に合意した。4回目は2008年3月18日から19日に行われた〔afrol News - W. Sahara talks continues 〕。この交渉は国際連合事務総長潘基文の個人特使、Peter van Walsumによって監督された。 ==背景== マンハセット交渉は西サハラ紛争の平和的解決に向けた3回目の試みとみなすことができる。1991年、解決計画が締結され、民族自決住民投票(モロッコへの併合か、SADRとしての独立か)を1992年を行うことが計画された。しかし、投票を是としない人々の反対により、これは再三に渡って延期された。モロッコは固有の選挙権保有者数を超える数の不法入植者を西サハラへ送り込み、これに対しポリサリオ戦線は1991年の協定に基づき1975年のモロッコによる占領以前への即座の撤退を求め、これを投票資格の基礎とすることを主張した。これに関してモロッコは、これらの人々は本物のサハラ人であり、彼ら抜きに投票は行われるべきでないと主張した。 1997年、アメリカの仲裁のもとモロッコとポリサリオ戦線は、投票過程を再開させるヒューストン協定へと進んだ。平和の維持と独立投票の準備を目的とする国連のMINURSOミッションは、約85000人分の準備的なリストを作成し、投票の準備段階である投票者の登録を1999年に終了した〔MINURSO 〕。MINURSOの査察団による面談により投票権を失った、もしくは調査を拒否したサハラ人だと主張してきた大量の人々の除外にモロッコは抗議した。モロッコの19万人におよぶ個人的な抗議が行われ。国連の公式筋は投票が再び行き詰まったことを認めた〔For an extensive review of the voter registration process, especially its early stages, by a top UN responsible at the time, see Erik Jensen, ''Western Sahara. Anatomy of a Stalemate'' (Lynne Rienner, December 2004)〕。 21世紀に入ると、強力なアメリカの後押しと共に、ベイカー計画のような平和的解決への新しい試みが行われた。これらの文書は共に、ポリサリオ戦線が"入植者"だと主張してきた人々やMINURSOの投票権審査で無関係と判断された人々を含む、地域内のすべての住民に完全な投票権を意味していた。最初のベイカー計画は草案として発表され、モロッコに強く支持されたが、ポリサリオ戦線が同様に強い反対を表明すると安全保障理事会によって却下された。対照的に、安全保障理事会決議(SCR 1495 )によって推された、2003年夏の詳細なプランはポリサリオ戦線によって慎重に認められた(聴くところによると、アルジェリアの圧力によるものということである〔 Toby Shelley, Behind the Baker Plan for Western Sahara (MERIP, August 1, 2003)〕)。しかし、 無記名投票としての独立を含む面で、断定的にモロッコに拒否された。ムハンマド6世 (モロッコ王)がスローネを訪問した後から、モロッコは独立投票への1991年と1997年の合意を破棄していた。ポリサリオ戦線は、モロッコがこのようにして、完全に独立投票に委ねるとした1991年の停戦合意を破ったと主張しているが、戦闘が再開されることはなかった。 モロッコの主権下での自治計画を準備しているとモロッコが宣言している間、自体は再び停滞に陥った。ポリサリオ戦線は無記名投票における第3の意見として、自治に入ることを認めたが、法的な意味で民族自治になり得ないと反対する、独立の可能性を含まない投票に関する議論は拒絶した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マンハセット交渉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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