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マンハッタンスカイは日本の競走馬。おもな勝ち鞍は2008年福島記念。 == 戦歴 == マンハッタンカフェの初年度産駒として2006年7月函館でデビュー。デビュー後も上位人気には支持され続け、掲示板に幾度も名を連ねるが勝ち星までには届かず2007年4月に未勝利を脱出するまで11戦を要した。勝ち上がってからは果敢に京都新聞杯に挑戦するも惨敗。その後条件戦を2連勝して秋には神戸新聞杯から菊花賞へのローテーションが取られたが力及ばず着外に終わる。 菊花賞後は自己条件である準オープンを中心に出走、未勝利時代同様に着拾いの内容が暫く続いたが翌2008年4月にオープン入りとなった。 昇級初戦となる新潟大賞典では直線しぶとく粘り2着、さらに金鯱賞ではカワカミプリンセスら多くの重賞ウィナーが出走し11番人気と一気に評価を落とす中、先行策から他馬の追撃をかわしここでも2着と健闘した。 この後北海道遠征を経て京都大賞典を使うが結果が出ず、アルゼンチン共和国杯13着のあと、福島記念に挑戦。スタート直後から2番手につくとそのまま後続馬の追走をクビ差振り切り重賞初制覇、また騎乗した芹沢純一は6年ぶりの重賞勝利となった。 2009年は万葉ステークスから始動し、2着と好走する。その後京都記念では6着、中京記念では14着、日経賞では8着と着外続きであった。続く4月12日の福島民報杯では1番人気に推されたが、勝ったホッコーパドゥシャに4馬身差つけられたものの2着を確保した。その後メトロポリタンステークス、新潟大賞典、金鯱賞と3戦するがいずれも8着に敗れた。しかし、7月12日の巴賞では2・3番手追走から最後の直線で逃げるドリームサンデーとの競り合いを制し、勝利を収めた。続く7月26日の函館記念では3番手追走も直線で失速し、6着に敗れた。続く8月23日の札幌記念では10番人気と評価を落としていたが、2番手追走から粘って4着となった。続く9月6日の札幌日経オープンでは道中3番手でレースを進めるも伸びあぐねて6着に終わった。続く9月27日のオールカマーでは5着だった。その後、連覇がかかった福島記念に出走、先行集団でレースを進めたが失速し13着という結果に終わった。続く12月12日の中日新聞杯でも12着と大敗した。 2010年は前年同様万葉ステークスから始動、道中3番手でレースを進めたが直線で失速し10着と大敗した。続く日経新春杯では6着、小倉大賞典では10着、中京記念では12着、日経賞では13着、大阪-ハンブルクカップでは7着と惨敗が続いた。6月19日の函館競馬場グランドオープン記念では2番手追走から直線で早めに抜け出すと好位から伸びてきたホッカイカンティを半馬身差抑えて勝利し、惨敗続きに終止符を打った。続く7月25日の函館記念では先団追走も直線で伸びあぐねて人気通りの6着に敗れた。8月7日のみなみ北海道ステークスでは好位追走も失速し15着と殿負けを喫した。8月22日の札幌記念でも11着と大敗した。 2011年はメトロポリタンステークスから始動、先手を取るも直線で失速し9着。その後新潟大賞典に出走予定だったが疝痛のために出走取消となった。続く金鯱賞は好位の3・4番手に控えたが直線で伸びあぐねて7着。五稜郭ステークスは2番手追走も失速し9着。続く函館記念では先団追走も直線で失速し13着と大敗した。8月6日のみなみ北海道ステークスでは好位追走も2周目の3コーナーで失速し12着と殿負けを喫した。初めてのダート戦となったエルムステークスでも12着。福島記念では先行集団でレースを進めたが失速し17着という結果に終わった。 2012年は1月9日の障害未勝利戦から始動、2周目の向正面のラスト2つ目の障害では捲くって3番手まで上がったが12着と殿負けを喫した。続く2月25日の障害未勝利戦でも10着と大敗。4月1日のダービー卿チャレンジトロフィーでは中団追走も失速し16着と殿負けを喫した。4月4日付けで競走馬登録を抹消、岡田牧場で種牡馬となった。当初から供用は1シーズン限りの予定であり、2013年の種付けを最後に種牡馬を引退。7月から功労馬として土佐黒潮牧場で余生を送っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マンハッタンスカイ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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