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マンモス佐々木(まんもす ささき、本名:佐々木 嘉則(ささき よしのり)1974年7月23日 - )は、大阪府大阪市旭区出身で東関部屋所属の元大相撲力士、日本の男性プロレスラー。プロレスリングFREEDOMS所属。現在は埼玉県さいたま市大宮区在住。大相撲時代の四股名は浪速 嘉則(なみはや よしのり)。 == 来歴 == 1995年1月場所に東関部屋から初土俵を踏み、四股名を若佐々木、浪速と改名し、横綱・曙の付き人も務めた。最高位は三段目98枚目。大相撲時代の体格は、身長184cm、体重119kg。 相撲廃業後はFMWに入団。1997年12月8日の愛知県岡崎市体育館興行での対中川浩二戦でプロレスデビュー。 FMW所属レスラーとして名を馳せていたが、そのFMW解散のあと、2002年より、WMFの看板選手として活躍。2003年には、天龍源一郎と出会い、彼との対戦は有名で、その際マンモスは天龍を「固い、固い岩だった」と語っている。WMF退団後は、アパッチプロレス軍のメンバーに。 その後大日本プロレスにてシャドウWXをパートナーに迎え、重量級タッグ「チームあんこ型」を結成。BJW認定タッグ王座への挑戦を要求し続け、遂に2006年、そのタッグ王座を賭けてチャンピオン「マッスル&ファットです。」(アブドーラ小林、関本大介)との対戦が実現。シャドウWXが関本を垂直落下式ブレーンバスターで退け、遂にBJW認定タッグ王座に輝いた。その後は12月3日横浜文体で関本大介・佐々木義人組に敗れるまで4度の防衛戦に勝利。 一方でアパッチ主催興行では、関本大介とのパワーファイター対決を繰り広げ、インディー屈指の名勝負とも言われるようになる。2007年以降は関本とチームを組むこともあり、7月には関本と中西学との抗争に関連した6人タッグマッチにも、大日本サイドとして参加。 BJWタッグベルト陥落を機に、2007年にシングルプレーヤーへの転向を決断。2月2日小島聡と対戦、大健闘するも敗北。2月4日真壁刀義の持つWEWヘビー級王座に自身に有利な金網デスマッチルールで挑戦したが敗北した。その後、抗争を繰り広げていた井上勝正の要請に応え、関本・佐々木義人のBJWタッグベルトに再挑戦したが、こちらも敗北した。しかし、9月23日アパッチ後楽園大会にて、再度新日本に流出してしまったWEWヘビー級ベルトを矢野通から奪還。2008年7月12日に石井智宏に敗れるまで、5回の防衛に成功。WEWヘビー陥落直後も自らの申し出により、KAIENTAI-DOJOに流れたBJWタッグ王座奪還に関本大介と共に成功した。 2009年大日本最侠タッグリーグ戦にチャンピオンチームとして参戦中の2月28日に、交通事故に巻き込まれ頸椎挫傷の怪我を負ってしまい、体調を憂慮した大日本側から以後の試合出場を見合わせられる。結果的にリーグ戦途中棄権になってしまったことに責任を感じた本人の意思でBJWタッグ王座を返上した。 療養中に、所属しているアパッチプロレス軍が解散。後に佐々木貴や葛西純は新団体「プロレスリングFREEDOMS」を旗揚げするが、療養中である事を理由に入団を保留した。 2010年3月10日、FREEDOMS大会のリングに登場し復帰を宣言。6月21日FREEDOMS後楽園大会、関本大介とのシングル戦にて復帰を果たした後、7月1日付けでFREEDOMSに正式入団した。 2013年にFREEDOMSで勃発した大仁田厚と邪道軍との抗争では元FMWだったため邪道軍側に加わったが、抗争の終結で再び本隊に戻り活動している。また杉浦透の熱烈なアピールでKFCタッグ王座争奪リーグのパートナーとなりマンモスギボンバーズというチームで決勝まで進出するも敗北。 2014年10月16日、元付き人の曙とタッグで対決する。曙をブレーンバスターで投げ捨てるが曙のパートナー大森隆男がマンモスのパートナーGENTAROにアックスボンバーを決めて勝利する。 12月25日には曙とのシングル対戦が実現し、ハードコアルールで臨んだが敗れてしまった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マンモス佐々木」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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