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マーガレット・オブ・コノート : ミニ英和和英辞書
マーガレット・オブ・コノート[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

マーガレット・オブ・コノート : ウィキペディア日本語版
マーガレット・オブ・コノート[ちょうおん]

マーガレット・ヴィクトリア・シャーロット・オーガスタ・ノラ・オブ・コノート(, 1882年1月15日 - 1920年5月1日)は、スウェーデングスタフ6世アドルフの最初の妃。スウェーデン語名ではマルガレータ()と呼ばれた。愛称はデイジー()。夫の即位以前に死去しており、王妃にはなっていない。
== 略歴 ==
イギリス王子・コノート公アーサーとその妃ルイーズプロイセン王族、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の曾孫)の娘として、バクショット・パークのコノート公爵邸で生まれた。3月11日にウィンザー城の礼拝堂でカンタベリー大主教によって洗礼が施され、ヴィクトリア女王(父方の祖母)、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世(母方の曽祖父の兄)、ドイツ皇太子妃ヴィクトリア(父方の伯母)、プロイセン王子フリードリヒ・カールとその妻マリア・アンナ妃(母方の祖父母)、イギリス王太子アルバート・エドワード(父方の伯父)が代父母を務めた。
5歳年下の妹パトリシアとともに、当時ヨーロッパでも指折りの美しい王女として知られていた。伯父エドワード7世は、姪たちにヨーロッパの王か王太子と縁づいてもらいたいと考えていた。1905年に一家で世界周遊旅行に出かけたマーガレットは、立ち寄ったポルトガルで王太子ルイス・フィリペカルロス1世の長男)の妻にと望まれるが、これは実現しなかった。同じくパトリシアも、訪問先のスペインアルフォンソ13世の妃にと望まれるが叶わなかった。
エジプトスーダン訪問のため立ち寄ったカイロで、一家はスウェーデン王オスカル2世の孫息子グスタフ・アドルフ王子と出会った。マーガレットとグスタフは恋に落ち、瞬く間に婚約が成立。1905年6月15日に2人はウィンザー城で結婚し、新婚旅行としてアイルランドで過ごした後、7月8日にスウェーデンに到着した。マーガレットはスウェーデン語とスウェーデンの歴史、社会福祉についての講義を受け、2年後には見事なスウェーデン語を話せるようになった。1907年、夫の祖父オスカル2世の崩御によって王太子妃となった。
第一次世界大戦が始まると、マーガレットは赤十字社援助のために裁縫協会を設立した。パラフィン供給が低下するとロウソクのコレクションを提供した。
1920年5月1日、感染症による頭部手術を施される間に急逝した。その時、マーガレットは妊娠8ヶ月で第6子を身ごもっていたが死産した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「マーガレット・オブ・コノート」の詳細全文を読む




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