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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
マーガレット・ヒギンズ・サンガー(Margaret Higgins Sanger, 1879年9月14日 - 1966年9月6日)は、アメリカ合衆国の産児制限(受胎調節)活動家であり、優生学のある側面における唱道者であり、「アメリカ産児制限連盟」(American Birth Control League、後のPlanned Parenthood)の創設者である。子供をいかにして、何時産むかを女性自身が決定する権利についてのサンガーの思想は、初めの内熾烈な反対を受けたが、やがて人々と法廷の支持を勝ち取っていった。優生学の唱道者としてはそれほどの支持を受けてはいないが、産児制限が広く行われるようになる道を切り開いた功労者である。 以降、本項目において「性」は特記しない限り英語 sexuality の訳である。 == 生涯 == (以下、サンガーではなくマーガレットと記述する) マーガレット・ヒギンズは1879年、ニューヨーク州のコーニングで生まれた。マーガレットの母、アン・パーセル・ヒギンズ(Anne Purcell Higgins) はカトリックの敬虔な信者であった。結核と頸部の癌のために死去するまでに、18回妊娠し、その内11回が生児出生だった〔Steinem.〕。マーガレットは姉に授業料を払ってもらいながらハドソン(Hudson)にあった寄宿制の学校、Claverack Collegeに二年間通学したが、経済的にやっていけなくなった。マーガレットが帰宅し、ニューヨークの裕福な郊外であるホワイト・プレインズにあった病院付属の看護学校に通い始めた1899年に母親は死去した。1902年、マーガレットはウィリアム・サンガー (William Sanger) と結婚した。結核に脅かされながら、結婚翌年に男子を一人産み、さらに翌年に弟と妹を生んだが、この女の子は小さいうちに死んだ。マーガレットは病気がちで、結婚してすぐ子供が生まれたので、看護学校の第三学年を終えることができず、資格をとることもできなかった。だが、新しい夫はマーガレットがキャリアを追求するよりも子供を育て上げることを望み、マーガレットを気遣った〔Chesler.〕。 だが、その夫が考えた家庭は、1912年の大火で崩れ去った。サンガー一家はニューヨークシティに移り、マーガレットはマンハッタン東部の貧民街で働くようになった。その年からマーガレットは「全ての娘が知るべきこと」(''What Every Girl Should Know'')と題するコラムを ''New York Call'' に発表するようになった。貧しい女性に「家族を制限すること」(''Family Limitation'')というパンフレットを配りつづけ、コムストック法違反の廉で何度もスキャンダルを巻き起こし投獄された。避妊法と避妊具を広めることが猥褻行為にあたるというのである。 マーガレットは1913年、夫と別れた。1914年、産児制限の普及を目的とした新聞「女性反逆者」(''The Woman Rebel'')を始めた。1916年10月16日、ブルックリンのそばにある ブラウンズヴィル(Brownsville)に家族計画と産児制限のための診療所を開設した。この種の施設としてはアメリカ合衆国で最初のものである。これは官憲の不興を買うことになり、マーガレットは猥褻郵便物(産児制限に関する情報)を送付した廉で逮捕された。起訴を逃れるためマーガレットは欧州に渡り、そこで著名なSF作家H・G・ウェルズと恋仲になった。翌年、合衆国に帰ると活動を再開し、不定期刊行物の「産児制限レビュー&ニュース」(''The Birth Control Review and Birth Control News'')を立ち上げた。アメリカ社会党の機関紙「呼び声」 ''The Call'' に健康に関する寄稿を行うこともあった。 1916年、マーガレットは「全ての娘が知るべきこと」(''What Every Girl Should Know'')を出版し、この本は後に E. Haldeman-Julius の "Little Blue Books" の一冊として広まった。月経などに関する基礎的な知識だけではなく、思春期の性 (sexuality) についても理解を広めようとするものであった。1917年には「全ての母が知るべきこと](''What Every Mother Should Know'')を出版した。この年、マーガレットは「社会の邪魔者」として感化院に押し込まれた。 Lothrop Stoddard や C. C. Little と共にマーガレットが「アメリカ産児制限連盟」(American Birth Control League, ABCL)を設立したのは1921年のことである。翌1922年、マーガレットは日本に渡り、日本人フェミニストである石本静枝と共同して産児制限運動を推進しようとした。訪日はこの他にもその後数年の間に6回に及んだ。また1922年には、マーガレットは石油王ジェームス・ノア・ヘンリー・スリー(James Noah Henry Slee, 1861-1943)と結婚した。1923年、ABCLの後援のもと、マーガレットは臨床研究局を設立、これが合衆国で最初の合法的な産児制限診療所となった(1940年に、マーガレットの功績をたたえて「マーガレット・サンガー研究局 (Margaret Sanger Research Bureau)」と改名した)。またこの年には「産児制限のための連邦法制定全米委員会」(National Committee on Federal Legislation for Birth Control)を作り、会長となった。多くの州で医学的な管理下における産児制限が合法化された後の1937年に解散するまで、会長でありつづけた。1927年にはジュネーブで開かれた最初の世界人口会議の組織に当たって助力を行った。 1928年、マーガレットはABCLの会長を辞した。二年後、「産児制限国際情報センター」(Birth Control International Information Center)の会長となった。1932年1月、:en:Mirza Ahmad Sohrab と Julie Chanler が創立した New History Societyで演説を行い、これは後の「平和のための計画 (''A Plan for Peace'') 」の元となった〔Pouzzner.〕。1937年、マーガレットは Birth Control Council of America の議長となり、二つの出版物を興した。''The Birth Control Review'' 及び ''The Birth Control News'' である。1939年から1942年まで Birth Control Federation of America の名誉代表をつとめた。1952年から1959年まで、私設のものとしては当時最大の国際家族計画機関であった International Planned Parenthood Federation の会長をつとめた。 1960年のアメリカ合衆国大統領選挙において、マーガレットはジョン・F・ケネディ候補が産児制限に関してとっている態度にうろたえることになった(ケネディは産児制限を国政の問題とするべきではないと信じていた)。ケネディが当選したらアメリカ合衆国を去ると言っていたマーガレットであったが、後に態度を改めた。 1960年代の初め、開発されたばかりの経口避妊薬の利用を推進した。欧州、アフリカ、アジアを回り、講演を行い診療所の設置を援助した。 87歳でマーガレットが死去したのは1966年、アリゾナのツーソンでのことである。数か月前にグリスヴォルド事件(避妊法の指導者が州法違反として訴えられた事件。避妊具利用法の指導を禁止したコネチカット州法が違憲とされた。プライバシー権を認めた判決としても重要。Griswold v. Connecticut 381 US 479)の記念碑的な判決が出た直後であった。この判決で、合衆国においては夫婦の間の産児制限が合法化されることとなり、まさに50年にわたるマーガレットの闘いの頂点となったのである。 マーガレットの著作は他に ''Woman and the New Race'' (1920)、''Happiness in Marriage'' (1926)、自伝 (1938)がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マーガレット・サンガー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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