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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
マーク・アンドリュー・「ピート」・ミッチャー(Marc Andrew "Pete" Mitscher, 1887年1月26日 - 1947年2月3日)は、アメリカ海軍の軍人、最終階級は大将。第二次世界大戦後半の太平洋戦線における高速空母機動部隊の指揮官として有名である。 ==生涯== ===幼年期から青年期=== マーク・アンドリュー・「ピート」ミッチャーは1887年1月26日、ウィスコンシン州ヒルスボローで、商社員のオスカー・ミッチャーとミルタ・ミッチャーの息子として生まれた〔#谷光(2)p.417〕。父系はドイツ系移民で、木工職人だった祖父アンドレアス・ミッチャー(1821年~1905年)は1850年代に移民としてニューヨークに着き、ここで同じドイツ系移民の娘と結婚して、当時バイエルン、オーストリア由来のドイツ系移民が多く居住していたヒルスボローに移った〔。アンドレアスの次男だったオスカーは木工職人の職には就かず商社員となり、勤務先の経営者の娘だったミルタと結婚した〔。両親の性格は正反対で、オスカーは短気で山師的かつ賭博好きなところがあり、ミルタはそれとは逆に穏やかで無口な性格だった〔#谷光(2)p.418〕。しかし、家庭は至って平穏であり、何ら特筆すべき事情もなかった〔。また、ミッチャーには2歳年上の姉と7歳年下の弟がいた〔。翌1888年、一家はオクラホマシティでネイティブ・アメリカンのエージェントを務めていたアンドレアスの下に引っ越した〔。木工職人からエージェントに転身したアンドレアスは、後にオクラホマシティの市長も務め、両親もオクラホマシティで新たに商店を開き、さらにオスカーは市の助役に就いたり、当選はしなかったがウィスコンシン州知事選挙に出馬するなど政治的な動きも活発に行った〔。ただし、オクラホマシティで暮らしていたにもかかわらず、記録上では「ミッチャーはワシントンD.C.の小中学校で勉強した」ことになっている。 1904年、17歳になったミッチャーは海軍兵学校(アナポリス)に入学する〔。ミッチャー自身は海軍はおろか海洋方面にはさほど興味を持っていなかったようだが、オスカーがなぜかアナポリス行きを願っており、知己のオクラホマ州選出の下院議員の推薦をもらって入学することになった〔。この時同時に入学した者の中には、リッチモンド・ターナーやトーマス・C・キンケイドらがおり、卒業年次から「アナポリス1908年組」と呼称された世代である〔〔#谷光(2)序頁〕〔海軍兵学校(江田島)の卒業年次に換算すると、南雲、沢本頼雄、塚原二四三らを輩出した36期に相当する(#谷光(2)序頁)。〕。父の願いを受けてアナポリスに進んだミッチャーではあったが、思わぬ事件に巻き込まれて退学を余儀なくされる。アナポリスに入って2年目の秋、クラスのグループ同士で発生した喧嘩で死亡者が出た〔#谷光(2)p.419〕。これを受けて暴力行為厳禁の通達が出たり死亡事件に関する調査が行われた〔。ミッチャーが殺人を犯したわけではなかったが、成績が劣等だったことや日々の素行が芳しくなかった〔ことなどから目をつけられ、退学処分が下されたのである〔。オスカーは再びマクガイアの推薦を得て1906年にミッチャーをアナポリスに再入学させたが、再入学したミッチャーは、年下の上級生からのいじめを受けるなど辛い日々を過ごすこととなり、「内向的、反抗的、非社交的」というレッテルを貼られる〔。しかし、アナポリス時代は辛いことばかりではなかった。時はライトフライヤー号の初飛行から10年も経っていなかったが、早くも航空に関する書物が出版されており、ミッチャーは校内でそれを読んで航空への関心を深めることとなる〔#谷光(2)p.422〕。ちなみに、再入学時の同期にはチャールズ・A・パウナル、フレデリック・C・シャーマン、のちにレイモンド・スプルーアンスの参謀となるチャールズ・J・ムーア(カール・ムーア)らがおり、卒業年次から「アナポリス1910年組」と呼称された〔〔海軍兵学校(江田島)の卒業年次に換算すると、三川軍一、栗田健男、五藤存知、戸塚道太郎らを輩出した38期に相当する(#谷光(2)序頁)。〕。 1910年、ミッチャーは131名中103位の成績をもってアナポリスを卒業し〔ミッチャー以外の卒業成績は、F・C・シャーマン24位、パウナル81位で、ムーアの順位は不明(#谷光(2)序頁)。〕、卒業後2年間の研修期間の間は士官候補生として装甲巡洋艦「コロラド」 (''USS Colorado, ACR-7'') 乗り組みとなり、1912年3月7日に少尉に任官した。この間、寄港先のブレマートンで後に妻となるフランシスと出会い、1913年1月に結婚する〔。その後、1913年8月の米墨紛争に備えて西海岸にいた装甲巡洋艦「カリフォルニア」 (''USS California, ACR-6'') に移った。駆逐艦「ホイップル」 (''USS Whipple, DD-15'') 、「スチュワート」 (''USS Stewart, DD-13'') 勤務の後、1915年9月に、アメリカ海軍において航空機を運用した初めての艦艇のうちの一隻である装甲巡洋艦「ノースカロライナ」 (''USS North Carolina, ACR-12'') に飛行訓練のため配属された。これより先の1910年11月、ミッチャーはパイロットを志願するが、志願が通ってペンサコーラの飛行学校に入学したのが1915年のことであった〔。翌1916年6月2日ミッチャーは海軍パイロット第33号となり、東海岸の各海軍飛行場で勤務した後海軍作戦本部勤務となって、その後第1水上機軍団に配属となった。また、1917年4月6日にはカタパルトの運用実験のため装甲巡洋艦「ハンチントン」 (''USS Huntington, CA-5'') に配属され、実験はフロリダ州近郊のに転じてからも続けられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マーク・ミッチャー」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Marc Mitscher 」があります。 スポンサード リンク
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