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マーク・ノールズ : ミニ英和和英辞書
マーク・ノールズ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

マーク・ノールズ : ウィキペディア日本語版
マーク・ノールズ[ちょうおん]

マーク・ノールズMark Knowles, 1971年9月4日 - )は、バハマナッソー出身の男子プロテニス選手。ダブルスのスペシャリストとして知られ、長年の間カナダダニエル・ネスターとペアを組んで活躍した。ATPツアーでシングルスの優勝はないが、ダブルスで55勝を挙げた。自己最高ランキングはシングルス96位、ダブルス1位。身長190cm、体重88kg、右利き。
== 来歴 ==
バハマ諸島が男子テニス国別対抗戦・デビスカップに初参加したのは、1989年のことであった。マーク・ノールズは初参加の時からバハマ代表選手として活躍し、2008年までデ杯通算「41勝32敗」(シングルス23勝25敗、ダブルス18勝7敗)を記録した。1990年から1992年までは学生テニス選手としてカリフォルニア大学ロサンゼルス校に在籍し、1992年からプロテニス選手として活動を始める。
マーク・ノールズのダブルス初優勝は、1993年7月末のカナディアン・オープンで、パートナーは当時世界ランキング2位のジム・クーリエアメリカ)であった。1995年全豪オープンダニエル・ネスターカナダ)とペアを組み、初めて4大大会の男子ダブルス決勝に進出したが、ジャレッド・パーマーリッチー・レネバーグ(共にアメリカ)に敗れて準優勝になった。それ以来、ノールズはほとんどの大会でネスターとペアを組むことが多くなる。1995年日本の「ジャパン・オープン」で優勝しているが、この時はアメリカジョナサン・スタークと組んで出場した。しかし1996年の同大会では、アメリカリック・リーチと組みながらも、決勝でオーストラリアの強豪ペア、マーク・ウッドフォード&トッド・ウッドブリッジ組に完敗している。1998年はネスターとのペアで、全仏オープン全米オープン準優勝があり、なかなか4大大会ダブルス初優勝に手が届かなかった。
ノールズとネスターがようやく宿願を実現させたのは、2002年全豪オープンであった。フランスミカエル・ロドラファブリス・サントロ組を 7-6, 6-3 で破った優勝は、初めての男子ダブルス決勝進出から7年後の長い道のりだった。こうしてノールズは、バハマに初めてのテニス4大大会タイトルをもたらした選手になった。同年には全仏オープンウィンブルドンでもネスターとのペアで決勝に進出したが、全仏ではエフゲニー・カフェルニコフロシア)とポール・ハーフースオランダ)組に、ウィンブルドンではトッド・ウッドブリッジヨナス・ビョークマンスウェーデン)の組に敗れて準優勝にとどまる。2003年全豪オープン男子ダブルス決勝では、前年と同じフランスのロドラ&サントロ組に敗れ、大会2連覇を逃した。
2004年全米オープンで、ノールズとネスターの組は4大大会ダブルス2勝目を達成する。2007年全仏オープンの男子ダブルスで、ノールズとネスターは5年ぶり3度目の決勝戦に進み、チェコペアのルーカス・ドロウヒー&パベル・ビズネル組に 2-6, 6-3, 6-4 の逆転勝利を収めた。これで2人の4大大会ダブルス優勝は「3勝」となる。2人は2007年の男子ツアー年間最終戦「テニス・マスターズ・カップ」ダブルス部門の優勝を最後に、10年以上に及んだペアの解消を発表した。
ネスターとのペア解消後は、2008年と2009年はマヘシュ・ブパシインド)と主に組んでいた。その後はマーディ・フィッシュグザビエ・マリスと組むこともあった。フィッシュのコーチも務めた。
2009年ウィンブルドンで、マーク・ノールズはアンナ=レナ・グローネフェルドドイツ)と組んで優勝し、初めての4大大会混合ダブルス優勝を決めた。ウィンブルドンでは2002年の男子ダブルス準優勝が自己最高成績であったため、これはノールズにとって初めてのウィンブルドン・タイトルとなった。
シングルスでのノールズは、4大大会では2回戦止まりの成績であるが、ウィンブルドンでは4度2回戦に進んでいる。1995年ウィンブルドンでは、1回戦でマルセロ・リオスチリ)破った後、2回戦で松岡修造日本)に 1-6, 4-6, 2-6 のスコアで敗れたことがあった。シングルスでは2000年12月に行われたチャレンジャー大会のコスタリカ・チャレンジャー1回戦でラズバン・サバウルーマニア)に3-6,2-6のストレートで敗れたのを最後にATPポイントの付く国際大会からは撤退しており、デ杯代表としても2003年のアメリカゾーン1回戦、対ペルー戦の1回戦イヴァン・ミランダ戦で 4-6, 6-3, 1-6 のスコアで途中棄権したのを最後にシングルスからは完全撤退し、2004年以後はダブルスのみに絞って活動した。
ノールズは2012全米オープンを最後に41歳で現役を引退した。
オリンピックのバハマ代表選手としては、1992年バルセロナ五輪1996年アトランタ五輪2000年シドニー五輪2004年アテネ五輪2008年北京五輪の5大会連続で出場している。1992年バルセロナ五輪ではとのダブルスに出場し、1回戦で第1シードのジョン・フィッツジェラルド&トッド・ウッドブリッジ組に敗退した。1996年アトランタ五輪ではシングルスとダブルスの両方に出場し、シングルスは1回戦でケネス・カールセンデンマーク)に 5-7, 3-6 のスコアで敗れたが、スミスとのダブルスでゴラン・イワニセビッチ&サシャ・ハーゾン組(クロアチア)との2回戦に進出した。シドニーとアテネではとのダブルスのみの出場で、シドニーでは2回戦で第2シードのアレックス・オブライエン&ジャレッド・パーマー組(アメリカ)を 6-2, 6-4 のスコアで下す金星を挙げ、デビッド・アダムズ&ジョン・ラフニー・デ・ヤーガー南アフリカとの準々決勝まで進んだが、アテネでは1回戦で金メダルを獲得したニコラス・マスー&フェルナンド・ゴンサレス組(チリ)に 5-7, 4-6 のストレートで敗れている。北京ではと組み1回戦で第1シードのボブ・ブライアン&マイク・ブライアン組に 2-6, 1-6 で敗れた。
ノールズの五輪5大会連続出場はテニス選手では6大会連続出場のリーンダー・パエスに次ぎダニエル・ネスターマヘシュ・ブパシアランチャ・サンチェス・ビカリオと並んで史上2位タイである。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「マーク・ノールズ」の詳細全文を読む




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