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マーク・メシエ : ミニ英和和英辞書
マーク・メシエ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

マーク・メシエ : ウィキペディア日本語版
マーク・メシエ[ちょうおん]

マーク・メシエMark Douglas John Messier1961年1月18日 - )はカナダアルバータ州エドモントン生まれのプロ・アイスホッケー選手である。NHLでは、センターとして1979年から2005年までの四半世紀余りに渡って、エドモントン・オイラーズニューヨーク・レンジャース及びバンクーバー・カナックスで活躍したほか、WHAインディアナポリス・レイサーズ (Indianapolis Racers) 、シンシナティ・スティンガーズ (Cincinnati Stingers) にも在籍した。
愛称はムース('Moose'、大型のヘラジカ)。メシエは、その猛々しく、決断力にあふれ、ぴりぴり張り詰めた緊張感、そして感情むき出しのリーダーシップとともに、人をあっといわせるパフォーマンスでカリスマ的ともいれる印象をホッケー界に残した。スペルが似ていることから、1991年からのレンジャーズ在籍時は救世主(messsiah)とも言われていた。
2つの異なるスタンレー・カップ優勝チーム(オイラーズ、レンジャース)でそれぞれキャプテンを務め(2005年現在で1人だけ)、合計では6度のカップ優勝を経験している。
== 来歴 ==
1978年、17歳のメシエはWHAのインディアナポリス・レイサーズと5試合のトライアウト契約を結ぶが、5試合で得点を挙げることが出来ず、経営難のレイサーズは閉鎖直前にメシエを放出。メシエは新たにシンシナティ・スティンガースと契約したが、47試合出場で1ゴールのみにとどまった。翌1979年、WHAが経営難のため閉鎖となりスティンガースは解散、メシエはNHLのドラフトでエドモントン・オイラーズに指名され入団、前年レイサーズで共にデビューしたウェイン・グレツキーと再び同じチームになったメシエは徐々に頭角を現す。1981-1982シーズンにはオールスターの第1チームに選抜され、その翌シーズンには早くもシーズン100ポイント越えの好成績を残した。1988年には、ロサンゼルス・キングスに移籍したグレツキーの後継としてオイラーズのキャプテンに就任した。
メシエのレギュラーシーズンのポイント数1,887(694ゴール、1,193アシスト)は2005年の引退時においてNHL歴代2位であるが、それにもましてプレイオフにおける勝負強さが高く評価されることが多い。例えば、1984年のスタンレー・カップ決勝では、強豪ニューヨーク・アイランダーズを追走するエドモントン・オイラーズを率い、敵チームのディフェンスを1対1でかわすと相手ゴーリーを至近距離からの巧妙なリストショットで翻弄しゴールを上げた。そして、このシリーズが終わってみると、プレイオフ最優秀選手賞(コーン・スマイス賞)を獲得したのは、同僚ウェイン・グレツキーでなく、メシエであった。
メシエはそれまでもスーパースターの地位を確立していたが、いわゆる「メシエ伝説」が誕生したのは、1994年の東部カンファランス決勝のことである。このシリーズで2勝3敗と窮地に立たされたメシエは、ニューヨークのメディアの前で、第6戦の勝利を公言してはばからなかった。そして、その言葉通り、メシエは2点のリードを許していた第3ピリオドでハットトリックを演じニューヨーク・レンジャースを勝利に導いたのである。このシリーズを勝ち上がったレンジャースは54年ぶりにスタンレー・カップ優勝を果した。そしてカップ第7戦でもメシエは決勝点を決めたのである。
1994年のスタンレー・カップはマーク・メシエの現役時代後半の境目となった。1994-1995シーズンはロックアウトがあったが、メシエは53試合で64ポイントを上げた。1995-1996シーズン、既に35歳になろうとしていたが、彼が1991-1992シーズンにマークした100ポイント越えに迫る99ポイントをたたき出した。その翌シーズンでも84ポイントを上げて「ムース」健在を印象付けたメシエは、36歳になっていたにもかかわらずバンクーバー・カナックスから5年間で3千万ドルとも伝えられる破格の条件のオファーを受け、フリーエージェントで入団を決めた。
この当時6年ぶりにアメリカ合衆国から母国のチームに再加入したメシエに対するカナダ人の期待は高かったが、1997-1998シーズンには60ポイントと平凡な記録に終わり、カナックスでの残り2シーズンも怪我でフル出場はならなかった。こうして3年間で162ポイントでカナックスを退団することとなった。
メシエは既に選手として充分な名声をものにしていたが、再びニューヨークに戻ってレンジャース復帰を果すこととなる。2000-2001シーズン、40歳で67ポイントをマークしたが、これはカナックス時代のどの成績よりも優れている。しかし、翌シーズンには約半分の試合に欠場し23ポイントに終わった。また、その翌年も40ポイントに終わっている。
2003-2004シーズンは、大方のファンがメシエ最後の年となるといわれた。2003年11月11日ダラス・スターズ戦で、メシエは生涯ポイント数でゴーディ・ハウを抜き去る2ポイントを上げた。そして、その11日後、アルバータ州エドモントンで行われたヘリテイジ・クラシックでメシエは唯一の現役選手として出場した。同シーズンのマディソンスクウェアガーデン最終戦では、メシエがパックを持つたびに喝采を浴び、試合終了後リンクを周回しながらスタンドに挨拶を送ると、スタンディングオベーションを受けた。43歳になろうとしていたメシエについて、大方のメディアは引退を予測する旨を報じた。そして、2004年から2005年のNHLロックアウトによるNHLシーズンの全試合中止のあと、2005年9月12日にメシエの正式な引退が発表された。
メシエは引退するまでにNHLのレギュラーシーズン公式戦では、ゴーディ・ハウにわずか11試合及ばない1,767試合に出場したが、この記録は多くの者から、更新不可能な記録であると考えられている。また、レギュラーシーズン・プレイオフ通算では1,992試合という最高記録(2005年時点)を保持している(ちなみに、ゴーディ・ハウの同記録は1,924試合)。メシエは、NHLで4半世紀にわたってプレーしたことのある稀有な選手である。
2006年1月12日、マーク・メシエの背番号11番の永久欠番セレモニーが「マーク・メシエ」ナイトと銘打たれ行われた。
このセレモニーは2005-2006シーズンの試合の後に行われ、試合は延長戦にヤロミール・ヤーガーが決勝ゴールを決め勝利し、セレモニーに花を添えた。
メシエ家の一族にはホッケーの血筋が流れているのであろうか、父親のダグラスは自身NHLに所属した経験はないものの、メシエの幼い頃から、ジュニアホッケーの Spruce Grove Mets やセントアルバート・セインツ (St. Albert Saints) でコーチと精神的主導者の役割を果たした。また兄弟のポールは、NHLにかつて存在したコロラド・ロッキーズのセンターであったし、従兄弟のミッチ及びジョビーもNHLのチームに所属した。
メシエは、故郷アルバータ州のセント・アルバートでは伝説の人物となっており、その地域に所在するキャンベル・アリーナにはメシエの名前が冠されている。
2007年2月26日にエドモントンよりメシエの故郷セント・アルバートへと続くセント・アルバート・トレイルの一部をマークメシエ・トレイルとすることが発表された。
2007年2月27日にREXALL PLACEにてOILERSのジャージ・リタイヤメント・セレモニー(永久欠番授与式)が執り行なわれた。彼の名は彼のつけていた11番とともに今後OILERSの本拠地であるREXALL PLACEに永久に飾られる事となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「マーク・メシエ」の詳細全文を読む




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