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マーケット・ガーデン作戦(マーケット・ガーデンさくせん、Operation Market Garden)は、第二次世界大戦中の1944年9月に行われた連合国軍の作戦。 連合軍がドイツ国内へ進撃する上で大きな障害となるオランダ国内の複数の河川を越えるために、空挺部隊を使用して同時に多くの橋を奪取する作戦であった。またこれは、同時にオランダの港湾施設を使用可能状態にして、補給線が伸びきっていた連合軍の兵站問題を解決する上で重要な作戦でもあった。 連合軍は途中のナイメーヘンのライン橋の占領までは成功したものの、空挺降下計画の稚拙さと強引さ、補給の途絶など悪条件が重なり、損害が予想以上に拡大した。作戦の最終到達点であったアーネム(アルンヘム)の最後の橋は、イギリス軍の第1空挺師団が壊滅するなどしたために確保できず、作戦は失敗に終わった。 ノルマンディー戦以後、負け無しの進軍を続けていた連合軍は、このつまずきによって進軍速度を大幅に落とすことになった。兵站問題を強引に解決するための性急な作戦だった上に、空挺降下地点であるアルンヘム周辺に、ドイツ軍の有力な実戦部隊である第9SS装甲師団や第1降下猟兵軍などが一時駐留していたという不運も重なった。対するドイツ軍も連合軍の空挺降下を予想してはいたが、初期の混乱などから十全に対処できたとは言い難く、連合軍の不手際に助けられて辛うじて撃退できたと言える。本作戦で連合軍は最終目標こそ達成できなかったが、スヘルデ川北岸地域に至る重要なルートを確保し、スヘルデの戦いの成功に繋がった。 == 背景 == ノルマンディー上陸作戦後の1944年8月、ファレーズ・ポケットなどでドイツ軍に大打撃を与えた連合軍は、それまでの停滞した戦線と異なり急速な進撃を開始した。8月25日にはパリを奪還、9月4日にはイギリス第21軍集団揮下のカナダ第1軍がベルギーのアントウェルペン(アントワープ)を奪還していた。 しかし、この進撃速度は計画を大幅に上回るものであった。当時の連合軍の補給物資はコタンタン半島の先端の港湾シェルブールかノルマンディーの上陸地点を経由しており、イギリス海峡に面した他の重要な港湾は、撤退が間に合わず取り残されたドイツ軍が占拠しているか(例えばダンケルクは1945年5月の降伏までドイツ軍が保持していた)、あるいは撤退するドイツ軍によりクレーンやデリックなどの港湾施設が破壊され荷揚作業ができない状態にあった。連合軍の各部隊はその補給路の長さから来る燃料・物資の不足に悩まされることとなり、9月初旬には進撃が停滞した。 このためイギリス海峡に面した港湾を確保し、新しい補給路を構築することが早期進撃再開のために必要と考えられた。アントウェルペンは世界有数の良港であり、クレーンなどの港湾設備が残存していたため、連合軍にとってイギリス海峡に面した新たな補給拠点になる重要な候補であった。しかし港湾設備の大半はスヘルデ川を遡上した内陸にあり、また内水への航路上にはまだ機雷が敷設されていたため掃海の必要があった。唯一利用可能な河口域(オランダ領)の施設はドイツ軍が排除されておらず、港湾としての機能が果たせない状態にあった。河口域南岸のドイツ軍残存部隊に対してはカナダ第1軍が掃討作戦を展開中であったが、北岸のドイツ軍は手付かずの状況にあり、この地域のドイツ軍を残存させることはアントウェルペン港完全解放、ひいては連合軍全体の補給の障害となっていた。 連合軍、特にイギリス第21軍集団司令官バーナード・モントゴメリー元帥は、ベルギー・オランダ方面に戦力を集中し迅速なドイツ国内への進撃を行うことが、ドイツを打倒するために最適であると考えていた。ラインの下流域でドイツ国境を突破し、ルール工業地帯を打通することでドイツの継戦能力を奪って年内のクリスマスまでに戦争を終結させるということが彼の主張であった。これにはモントゴメリーと連合国内における一番乗り競争に絡む名誉の問題、あるいはイギリスは戦争における人的資源の消耗が激しく、早期の戦争終結を求めていたことが判断の根底にあったとされる。ただし、モントゴメリーには迅速な作戦遂行の経験が少ないこと、攻撃正面が狭く進撃部隊が比較的小規模になりドイツ軍からの反撃が予想されることから、連合軍内部で反対にあっていた。特に連合軍最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワー大将は、ベルギー・オランダ方面だけではなくソ連の東部戦線を含めた全戦線で攻撃をかけることにより、ドイツ軍からの反撃をおさえる方法を主張していた。そこで最高司令部はモントゴメリーに対して、当初スヘルデ川河口域北岸のドイツ軍駐留部隊の排除のみを要求していた。 しかし、9月8日にV2ロケットによる初のロンドン攻撃が開始され、事態は大きく変化する。V2は超音速で飛来するため、当時の技術では迎撃不可能であった。つまりV2の攻撃を阻止するためには発射基地を破壊するしか方法がなく、そのため拠点と見られたオランダを奪還する必要が生じた(なおV2に関する技術情報は事前に入手されていたことから、この推測には相応の妥当性があり、また実際にV2はハーグを中心としたオランダから発射されていた)。 翌9月9日、連合軍最高司令部はオランダの奪還を決断した。作戦地域には多くの河川があり、迅速な進撃のためには橋梁の確保が必須条件となった。そこで複数の橋梁を同時に確保するために空挺部隊を投入することとなった。作戦参加部隊は、第1空挺軍(3個空挺師団基幹)および英第30軍団(3個師団基幹)であった。 == 計画 == 計画は二つの作戦、空挺部隊の降下によるマーケット作戦および英第2軍の第30軍団が先頭に立って国道69号線に沿い北へ移動する「ガーデン作戦」から成った。空挺部隊はルート上の主要な橋を確保、地上部隊は3ないし4日でドイツ・オランダ国境付近まで一気に北上するというものである。 ニーダーライン川を越え北岸の町アーネム(アルンヘム)まで押さえればジークフリート線を完全に迂回してドイツ本国への進撃路を確保することができる。 === マーケット作戦 === 「マーケット作戦」は第1空挺軍の五個師団のうち三個師団が投入された。主要な降下地点は南部からアイントホーフェン、ナイメーヘン、アーネムの3箇所であった。米第101空挺師団は英第30軍団の真北に降下しアイントホーフェンの北西ゾンとフェフヘルの橋を確保、米第82空挺師団はさらにその北東、グレーヴとナイメーヘンの橋を確保することとなった。最後の英第1空挺師団とポーランド第1独立パラシュート旅団はアーネムの鉄道橋と道路橋を確保するため、作戦地域の北端に降下することとなった。 アイントホーフェン地区にかかる橋は運河橋であり、爆破されても工兵による架設が可能であるが、ナイメーヘンとアーネムにかかる3つの橋は川幅も広く、ナイメーヘンの道路橋か、アーネムの道路橋・鉄道橋両方の橋が爆破されてしまえば作戦は失敗する。 マーケット作戦は「リフツ(lifts)」として知られている三つの大きな作戦のうち30,000人を降下させた最大のものであり、歴史上でも最大の空挺作戦だった。英第1空挺軍軍団長・連合空挺軍副司令官のフレデリック・ブラウニング中将は前線で指揮をするため自らの司令部を第一陣の降下部隊(米第82空挺師団)に加えた。 === ガーデン作戦 === ガーデン作戦は英第2軍の主力である第30軍団(機甲師団主力)が行った。彼らは空挺作戦の開始と同時に国境を突破し、国道69号線沿いに北上、作戦初日にアイントホーフェンの米第101空挺師団に合流し、2日目にはナイメーヘンの米第82空挺師団に合流、遅くとも3日目あるいは4日目にアーネムの英第1空挺師団に合流すると計画された。さらに幾つかの歩兵師団を防御任務のために空挺師団と交代させ、出来る限り早期に空挺師団を他の任務に振り分ける予定であった。 現実には4日間の期間は空挺師団が補給無しで戦闘するには長すぎであった。更に空挺兵は基本的に軽歩兵であるため充分な対戦車兵器を持つことができなかった。しかしながら、この時点で連合軍司令部はドイツ軍の戦力が壊滅しつつあると考えていた。実際、アントウェルペンからシェルト川河口域南岸のドイツ軍排除に着手していたカナダ軍正面のドイツ第15軍のほとんどは装甲車輌を持たず、すぐに退却するように思われた。したがって英第30軍団は国道69号線上で限定的な抵抗にしか直面しないと予想された。 === ドイツ軍 === 独第15軍の敗走は、9月前半にゲルト・フォン・ルントシュテット元帥が西方総軍司令官に着任することでようやく食い止められた。ヴァルター・モーデル元帥から代わったルントシュテットは、2ヶ月前にその職を解任されたばかりであった。ルントシュテットはヒトラーには疎まれていたが、彼の復職は前線の多くの将兵を歓喜させた。部隊はその週内に戦闘可能状態に補充された。具体的にはモントゴメリーの英第21軍集団の快進撃により分断されスヘルデ川南岸や、大西洋岸に孤立していた独第15軍の敗走兵のほとんどを、奪還されず放置された状態にあったスヘルデ川河口北岸堤防から続々と船上げし、カナダ第1軍とスヘルデ川の間のポケットから脱出させることで、たまたま進撃予定ルートの北西部へ兵員85,000人(車両6,000両、火砲600門以上)を加えることに成功した。コブレンツに赴任したルントシュテットは直ちに国防軍情報部が報告した連合軍の60個師団に対する防衛計画を作成し始めた(このうち11は虚偽であり、実際には49個師団しか存在しなかった)。 ルントシュテットの着任により、兼任を解かれB軍集団司令官の専任となったモーデル元帥は、司令部をアーネムのすぐ西に位置するオースターベークに移した。B軍集団はベルギー・オランダ方面を侵攻・防衛するための歩兵が主力の部隊であったが、フランス侵攻部隊(A軍集団)の事実上の壊滅により撤退中のSS装甲師団も臨時に統括することになる。またフランス北部から撤退した第15軍(グスタフ=アドルフ・フォン・ツァンゲン大将)の残存兵力も合流させた。 クルト・シュトゥデント上級大将は、新設の第1降下猟兵軍を得たものの、海岸線の防衛を任されていた第719歩兵師団(オランダ占領部隊。シェルト川北岸などに駐屯)と第176歩兵師団(病傷兵が大半)など寄せ集めの兵をもってベルギー・オランダ国境のアルベルト運河沿いに防衛線を構築することとなった。彼はドイツ空軍降下猟兵の創設者であり、オランダ侵攻作戦やクレタ島の戦いを前線指揮するなど降下作戦に関して一級の豊富な知見をもっており、またシュトゥデントが得た3,000名の降下猟兵は、おそらく当時のドイツ軍ではほぼ唯一の戦闘即応部隊であった(敗残兵のみと予想していた連合軍将兵は、後にこの精鋭部隊の出現に驚かされる事になる)。フランス北部で戦い壊滅した独第85師団を指揮していたクルト・チル中将は、オランダの橋の交差地点で敗残兵を集め混成部隊を形成した。シュトゥデントはチルの編成した混成部隊を指揮下におきオランダ・ベルギー国境付近に一斉配備し、防衛線としての体裁を取り敢えずは整えた。 ヴィルヘルム・ビットリヒ親衛隊中将の第2SS装甲軍団(第9SS装甲師団、第10SS装甲師団)はアーネム近郊で休養・再編成を行っていた。この部隊は、ノルマンディの戦いとそれに伴う艦砲射撃、空爆により大きな損害を受けており、兵員はノルマンディ投入前の20%(各師団の定数18,000名に対し、両師団あわせて7,000名)また装甲車両の大半は何らかの被害か故障を抱えていた。ファレーズ包囲戦からの脱出に成功したあと9月の上旬までには一部の軽微な被害車両の修理が開始され、また残りの過半の車両はドイツ本国での修理のために貨車積載を開始していた。SS師団の装甲車両はオランダ各地の防衛のため戦闘団に引き抜かれ再編されたため、師団はさらに弱体化していた。第2SS装甲軍団は、西部ヨーロッパにおける空挺部隊からの侵攻を撃破するために1943年に編成された部隊であり、過去に第9SS機甲師団は空挺部隊の着陸を阻止する実弾演習を行っていた。 アルベルト運河沿いに配置された兵士の多くから、対岸の連合国車両が夜間まで頻繁に行き来している状況が報告されており、近く大規模な侵攻作戦が展開されることが予想されたが、それが具体的にどのような作戦であるかは不明であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 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