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マーザンダラーン州(ペルシア語: استان مازندران , Ostān-e Māzandarān)はイラン北部の州。州都はサーリー。面積は23,833km²。人口は260万人(1996年)。 == 歴史 == マーザンダラーン州はアケメネス朝では地方(サトラップ)の一部であった。 マーザンダラーンには、その気候条件の制約から考古学遺跡などがあまり残されておらず、海岸平野部には保存状態の良い前イスラーム期の遺跡は全くない。しかしながら、州内で早い時期から人々が暮らしていたことが知られており、歴史のはじめより、マザーンダラーンはさまざまな王朝の統治下に移り変わっていった。 第3代正統カリフ、ウスマーン・イブン・アッファーンの651年、クーファ総督によってタバリスターンの海岸部が、はじめてイスラーム勢力に征服された。しかし、以降約100年間タバリスターンの(642年-760年)は、一時的にアッバース朝下に入ったこともあるが、7世紀初にサーサーン朝に代わったウマイヤ朝からの独立を保った。アリー家子孫のザイド派のアリー朝(864年-928年)のもとに分離、のち南東のサッファール朝下に入る。さらにその一世紀後にはズィヤール朝が同様にこの地域から勃興している。 アッバース朝カリフ、アブー・ジャアファル・アル・マンスールの時代にはタバリスターンで叛乱が相次ぎ、最終的には783年にのヴァンダード・ホルモズ(Vandad Hormoz)が独立王朝(8世紀-1349年)を建設した。1034年、ガズナ朝のスルターン・マフムード・ガズナヴィーがゴルガーンを経てマザーンダラーンに入った。11世紀中にイスラム教シーア派のイスマーイール派・ニザール派のハサン・サッバーフの影響が広がり、を中心にいわゆる「暗殺教団」の城砦が多く造られた。これに続き1209年にはホラズム・シャー朝のスルターン・ムハンマドの侵攻があった。 その後はモンゴル帝国のイルハン朝、ティムール朝の支配を経た。 タバリスターンの地方政権の崩壊後、1596年、マーザンダラーンはサファヴィー朝のシャー・アッバース1世によって帝国領内に取り込まれることになった。アフシャール朝のナーディル・シャーの統治下、この地域はロシア帝国への前線となった。 1930年代に東洋学者で旅行家のフレヤ・スタークがこの地域を踏査している。 近年までゴルガーンはマザーンダラーン州の一部地域をさしたが、1997年にゴレスターン州がマーザンダラーン州より分割され、その州都となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マーザンダラーン州」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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