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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
マージョリ・エセル・リーヴス (Marjorie Ethel Reeves, 1905年7月17日 - 2003年11月27日〔Obituary : Marjorie Reeves. Oxford historian and educator of wit and passion, she was a key figure at St Anne's College (『ガーディアン』によるリーヴスの訃報、2013年4月28日閲覧)〕) はイギリスの中世史家・宗教史家で、20世紀初頭にはほとんど省みられなくなっていたフィオーレのヨアキムについて、その思想がどのようなもので、かつてどれだけ大きな影響を及ぼしていたのかを再評価する上で、きわめて重要な役割を果たした研究者の一人である。オックスフォード大学では、の副学寮長(1951年 - 1967年)だった時期も含め、長く教鞭を執った。著書などでは単にマージョリ・リーヴスと名乗ることがしばしばであった。 == 生涯 == 1905年にウィルトシャー州の鉄工所経営者の娘として生まれた〔。後に中世史で知られることになるが、彼女が1929年に卒業したのはオックスフォード大学の現代史学科だった〔リーヴス (2006) p.643〕。もっとも、そのころから中世史を主たる研究対象にしており、その中でフィオーレのヨアキムの名前にも巡りあったという〔。 1929年から1931年にはロンドン大学のウェストフィールドカレッジ研究員として、給費を受けつつヨアキムの16世紀における受容のされ方について研究を行い、学位論文「大修道院長ヨアキム、特にその十六世紀における影響に関する論究」にまとめた〔リーヴス (2006) pp.643-644〕。 1931年から1938年まではの教育大学の歴史学講師として勤務した〔。1938年からはオックスフォードに戻り、ソサエティ・オヴ・ホーム・スチューデンツ(セント・アンズ・カレッジの前身)の講師として歴史学を講じ、1951年から1967年にはセント・アンズ・カレッジの副学寮長を務めた〔。オックスフォードでの教鞭自体は1974年まで執っていた〔。 1950年には休暇を利用してイタリアに赴き、バチカン図書館で調査を行ったほか、ヨアキムの修道院跡を見にカラブリア州にも赴いたという。しかし、ヨアキムが建設した修道院から始まった歴史を持つ町サン・ジョヴァンニ・イン・フィオーレでさえも、当時、ヨアキムに何らかの関心を示す者はほとんどなく、その修道院跡も廃墟と化していたという〔リーヴス (2006) pp.647-648〕。 しかし、彼女を含む何人もの研究者達の尽力によって、ヨアキムの再評価は着実に行われていった。彼女が1950年に訪れた時には見るべきものが何もなかったサン・ジョヴァンニ・イン・フィオーレでは、ヨアキム再評価の流れをふまえ、ヨアキム国際研究所が設置され、大修道院でも修復が行われた〔リーヴス (2006) pp.654-655〕。4年に一度、ヨアキム国際研究所で開催される国際会議には、町の人々も熱意を持って盛り上げに協力しているといい、その光景を見たリーヴスは初訪問の時と大きく変わったことを述懐していた〔。1994年9月には、リーヴスはサン・ジョヴァンニ・イン・フィオーレから、名誉市民の称号を与えられた〔リーヴス (2006) p.642〕。国際会議に先立って行われたこの時の授与式に出席していた大橋喜之は、当時89歳だったリーヴスの年齢を知らず、外見から70歳くらいかと思っていたという〔大橋 (2006) p.661〕。 2003年にオックスフォードにて98歳で歿した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マージョリ・リーヴス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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