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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
マーティン・マグダレノ・ディーゴ・リアノス(Martín Magdaleno Dihigo Llanos , 1905年5月25日 - 1971年5月20日)は、キューバのマタンサス州シドラ出身のプロ野球選手(投手、内野手、外野手)。右投げ右打ち。愛称は"El Maestro"(エル・マエストロ)。 == 経歴 == -シーズンに16歳でキューバ国内リーグ"リーガ・クバーナ・デ・ベイスボル"のレオネス・デル・ハバナでプロ野球選手としてのキャリアを始めた。 1923年からアメリカ合衆国のニグロリーグのキューバ人選抜チームであるキューバン・スターズ (イースト)に所属し、当初は主に一塁手として出場していた。 ニグロリーグではにイースタン・カラードリーグの本塁打王のタイトルを獲得した。ニグロナショナルリーグのニューヨーク・キューバンズに所属したにも2度目の本塁打王のタイトルを獲得するなど、打撃面でも目を見張る成績を残した。を最後にニグロリーグを離れた。 キューバリーグでは-シーズン、1935-1936シーズン、1936-シーズン、-シーズンと計4度のMVPを獲得した。 メキシカンリーグではに打者として打率.387、また投手としては18勝2敗・防御率0.90の成績を残している。資料によれば、メキシカンリーグ史上最初のノーヒットノーランを達成(1937年9月16日)したのがディーゴだと言われている。また同年、当時の大投手だったサチェル・ペイジと対決した試合があり、その試合では前半にペイジと投手戦を演じたあと、9回に自ら決勝の本塁打を放ってチームを勝利に導くという大活躍をやってのけた。〔NLBPAによれば、この試合でペイジは腕を痛めていたために、アンダースローで制球重視の投球をしていたが、それでも6回まで無失点に抑えていたそうである。〕 その後はにニグロリーグのニューヨーク・キューバンズの選手兼任監督として1年だけプレーして、イーストウェスト・オールスターゲーム(ニグロリーグのオールスターゲーム)にも10年ぶりに選ばれた。 にキューバリーグでのキャリアを終え、メキシカンリーグで選手兼任監督としてプレーした。 にキューバリーグで1試合だけ「現役復帰」して2回を投げた。通算107勝76敗は革命前のキューバリーグでは最も多い勝利数である。また、通算121完投もリーグ最多。 にキューバ野球殿堂入りを果たした。 フィデル・カストロを早くから支持し、キューバ革命の成功後は亡くなるまでスポーツ省の大臣を務めていた。 1971年5月20日に死去。。 にニグロリーグ特別委員会による選考でアメリカ野球殿堂入りを果たした。この他、メキシコ、ベネズエラ、ドミニカ共和国の野球殿堂にも名前を刻んでいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マーティン・ディーゴ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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