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マールテン・ステケレンブルフ(Maarten Stekelenburg, 1982年9月22日 - )はオランダ・北ホラント州ハールレム出身のサッカー選手。ポジションはゴールキーパー。サウサンプトンFC所属。 == 経歴 == アヤックスの下部組織出身で、2002年8月18日のユトレヒト戦でエールディヴィジデビューを飾った。その後はボグダン・ロボンツから定位置を奪い、後衛に欠くことの出来ないゴール前のディフェンスリーダーであったが、故障や不安定なプレーぶりから2008-09シーズン途中には一時ケネト・フェルメールにレギュラーを奪われた。 2004年9月3日、リヒテンシュタイン戦でオランダ代表デビューを果たし、3-0で完封した。マルコ・ファン・バステン監督によって2006 FIFAワールドカップ出場メンバーに招集されたが、出場機会はなかった。UEFA EURO 2008にも招集されたが、エトヴィン・ファン・デル・サールが正GKを務めたためやはり出場機会はなかった。2008年9月6日のオーストラリア戦では、44分のFWジョシュア・ケネディとの接触がファールとみなされ、レッドカードで一発退場となった。オランダ代表で退場処分を受けた初のゴールキーパーとなった。 ファン・デル・サールの代表引退後はベルト・ファン・マルワイク監督によって正GKに選ばれた。2010年5月27日、2010 FIFAワールドカップ本大会に出場するメンバーに選ばれた〔Holland coach Bert van Marwijk finalises World Cup squad Guardian.co.uk、2010年5月27日〕。グループリーグからスペインとの決勝戦までの全7試合にフル出場し、たびたびファインプレーを見せてチームの32年ぶりの決勝進出に貢献した。準決勝のウルグアイ戦で臀部をいためたが〔オランダ守護神ステケレンブルフ、臀部に痛み msn産経ニュース、2010年7月7日〕、スペイン戦にも出場し、MFセスク・ファブレガスとの1対1の局面で好セーブを見せるなど〔スペイン念願の初優勝!イニエスタが決勝ゴール スポニチ、2010年7月12日〕、敗れはしたものの、90分で決着をつけさせなかった。 2011年8月2日、エミリアーノ・ヴィヴィアーノの獲得に失敗したイタリアのASローマに4年契約・632万5000ユーロ+ボーナスで移籍〔ローマ、ステケレンブルフ獲得を正式発表 Goal.com 2011年8月2日〕。背番号は息子の誕生日である24を選択した〔ステケレンブルフ:「ローマでの目標はタイトル獲得」 Goal.com 2011年8月7日〕。これによって、アヤックス時代にレギュラーを争ったロボンツと再び同僚となった。 9月17日、インテル・ミラノとの一戦でルシオと接触。その際にルシオに顔を蹴られてしまい、一時意識を失って病院に運ばれた〔ローマのステケレンブルフが試合中に顔を蹴られ失神 スポーツナビ 2011年9月18日〕。 初年度は正GKとしてプレーしていたがルイス・エンリケ監督が退任し、ズデネク・ゼーマンが14年ぶりに監督に復帰するとマウロ・ゴイコエチェアが優先的に起用されるようになり、ベンチを温める試合が増えた。 2013年6月5日、プレミアリーグのフラムFCに4年契約で移籍した〔フラム、ステケレンブルフ獲得を発表 Goal.com 2013年6月5日〕。サンダーランドAFCとの開幕戦でデビューしたが、肩を痛めて途中交代し早々の離脱、その後も負傷を繰り返し、チームも降格となった。 2014年8月9日、ASモナコへ1年間のレンタル移籍が決定した〔モナコ、ステケレンブルフをレンタルで獲得 Goal 2014年8月10日〕。しかし、ダニエル・スバシッチから定位置を奪えず、退団したセルヒオ・ロメロと同様控えにとどまった。 2015年6月22日、サウサンプトンFCへ1年間の期限付き移籍〔Saints sign Dutch goalkeeper Stekelenburg サウサンプトンFC 2015年6月22日〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マールテン・ステケレンブルフ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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