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マールワール王国(マールワールおうこく、ヒンディー語:मारवाड़、英語:Marwar Kingdom)は、インドのラージャスターン地方に存在したヒンドゥー王朝(13世紀 - 1947年)。軍事保護条約締結後はジョードプル藩王国とも呼ばれる。 ==歴史== ラートール氏族はラーシュトラクータ朝の後裔であることを自称している。同王朝の没落後、ラートール氏族は北インドのカナウジへと移住した〔India: The Peacock's Call by Aline Dobbie p.41〕。 1194年、カナウジのガーハダヴァーラ朝はゴール朝のムハンマド・ゴーリーにより滅亡したが、ラートール氏族はマンドールへと逃げ、存続した。ラートール氏族の年代記はガーハダヴァーラ朝最後の王ジャヤ・チャンドラの孫にさかのぼっている。このことから、ラートール氏族はガーハダヴァーラ朝の後裔とも考えられる。 そして、13紀にラートール氏族によってマールワール王国がマンドールを首都に建国された。 1459年、ジョーダーはマンドールから自身の名を冠したジョードプルへ遷都した。 1561年、マールワール王マールデーヴは自身の息子ウダイ・シングをムガル帝国の宮廷に出仕させた。 1679年、アフガン問題の処理にあたっていたジャスワント・シングが死亡すると、 皇帝アウラングゼーブはその領土の併合を宣言した〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.367〕。これに対し、その遺児アジート・シングをドゥルガー・ダースが擁立し、メーワール王国とともに対抗した(第二次ムガル・ラージプート戦争)〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』年表、p.40〕〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.368〕。 18世紀、アウラングゼーブが死ぬと、マールワール王国は帝国と講和したが、マラーターの侵略があった。マールワール王国はシンディア家の支配下に入り、6万ルピーの貢納を収めたほか、アジュメールなどの都市も奪われた。 1818年、マーン・シングはイギリスと軍事保護条約を締結し、その保護下に入った(ジョードプル藩王国)。 1947年8月15日、インド・パキスタン分離独立に伴い、インドへと併合された〔http://www.maharajajodhpur.com/hh/hist_hanwant.htm〕。その後、ラージャスターン州が編成され、旧領に相当する地域はジョードプル州となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マールワール王国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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