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ミオドラグ・ベロデディチ(Miodrag Belodedici、1964年5月20日 -)は、ルーマニア出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはDF(リベロ)。 選手時代には往年のフランツ・ベッケンバウアーに準え「東欧のベッケンバウアー」「ベッケンバウアーの再来」と称された〔宇都宮徹壱『ディナモ・フットボール--国家権力とロシア・東欧のフットボール』みすず書房、2002年、217-218頁〕。 == 経歴 == セルビア国境に近いソコルという村で、セルビア人の家庭に生まれた。1982年にステアウア・ブカレストに入団すると、1986年のUEFAチャンピオンズカップ、1987年のUEFAスーパーカップ、4度のルーマニアリーグ(1985年、1986年、1987年、1988年)優勝などに貢献。1984年からはルーマニア代表にも選出された。その後、両親の祖国であるユーゴスラビアのレッドスター・ベオグラードでのプレーを希望したが、当時の共産主義政権では選手の国外移籍は30歳になるまで認めていなかったため、この申し出は取り下げられた〔。 1988年にユーゴスラビアに亡命しレッドスターへの入団を果たした。ヨーロッパサッカー連盟からこの移籍が法的に問題があるとして、規定により公式戦の1年間出場停止処分を受けた。またこれとは別にルーマニア政府は彼を国家反逆罪の罪で懲役10年の判決を下した。 1989年にルーマニア革命が起こり、共産主義政権が打倒されると、この罪は取り下げられ、また1年間の出場停止処分が明け、レッドスターへの移籍が認められると、直ぐにクラブの中心選手となった〔。1991年のUEFAチャンピオンズカップでは再び決勝に進出し、フランスのオリンピック・マルセイユをPK戦で下し優勝に導いた。この活躍により欧州の有力クラブからオファーが殺到する様になり、1992年にスペインのバレンシアCFへ移籍した。また同年には亡命騒動以来遠ざかっていたルーマニア代表へも4年ぶりに復帰を果たし、1994年のFIFAワールドカップ・アメリカ大会ベスト8進出に貢献した。同大会では鋭い読みでバルデラマ、アスプリージャ、リンコンらの攻撃陣を1点に封じ込めた初戦のコロンビア戦、完封したグループリーグ最終戦米国戦での活躍が光った。 その後、複数のクラブを渡り歩いた後の1998年に古巣のステアウア・ブカレストへ復帰し、2001年に現役引退した。引退後の現在はルーマニアサッカー協会に勤務し、ルーマニアU-20代表を指揮している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ミオドラグ・ベロデディチ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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