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ミカエル・プセルロス(Michael Psellos ; , 1018年頃-1078年頃)は、東ローマ帝国の政治家、哲学者、歴史家。当時目まぐるしく替わった皇帝たちに強い影響力を持った人物として、また、その皇帝たちの治世についてまとめた歴史書『年代記』を著した人物として知られている。プセロス〔Yahoo!百科事典「プセロス」 〕、プセッロス〔ポルフュリオス『新プラトン主義命題集成センテンチアェ』第1 - 第32章邦訳 (PDF)〕とも表記される。 == 生涯 == プセルロスの生涯に関する主要な出典は、彼の著作である。そこには、彼の自伝的とも言えるくだりが散見される。 それによると、彼はおそらく首都コンスタンティノポリスで生まれた。彼の家族は、ニコメディア出身で、先祖からは、エリート貴族や執政官を輩出したという。 彼の洗礼名はコンスタンティノスで、ミカエルはのちに聖職者となった時の名である。プセルロス(= 口ごもる人)は、おそらく演説のまずさに由来する彼の通称であると思われる。 彼はコンスタンティノポリスで教育を受けた。10歳頃には、姉(妹)の持参金を増額する助けのために、地方裁判官の秘書として、首都の外に派遣された。彼の姉(妹)が没した時に、彼はその仕事を辞め、首都に戻って研究をまとめた。ヨハンネス・マウロポウスの下で学んでいる間、後のコンスタンティノポリス総主教コンスタンティノス3世、ヨハネス8世および後の皇帝コンスタンティノス10世ドゥーカスと出会った。しばらくの間、再び諸地方に勤務したが、今度は彼自身が裁判官としてであった。 1042年よりも少し前に、彼はまたも首都に戻った。ここで彼は皇帝の大法官の秘書として、宮廷で下級の地位についた。そこから、彼は宮廷での発言力を急速に高めていき、ついには皇帝コンスタンティノス9世モノマコスに強く影響する政治的な助言者となった。同時に彼は、「哲学執政官」の肩書きで、新たに創設されたコンスタンティノポリスのアカデミーの主任教授となった。 モノマコスの治世末期に、彼は政治的圧力を感じ、1054年に宮廷を去って:w:Bithyniaの僧院に入った。しかし、モノマコスが死ぬと、その後を継いだ女帝テオドラに呼び戻され、再び宮廷入りした。その後、彼は次々変わった皇帝たちの高位の相談役として、政治的に活発に動き続けた。彼は、1057年のミカエル6世ストラティオティコスからイサキオス1世コムネノスの交代劇において決定的な役割を演じ、続くイサキオス1世からコンスタンティノス10世(1059年)、更にはロマノス4世ディオゲネスからミカエル7世ドゥーカス(1071年)の時にまで同様の役割を演じ、一種のキングメーカー的な地位を保った。 プセルロスは、ミカエル7世の父コンスタンティノス10世の治世下では、ミカエルに家庭教師として仕えていた。また、ミカエルが義父ロマノス4世や敵対者を押し退けて権力を掌握する上でも重要な役割を演じた。このため、プセルロスは、おそらく教師兼相談役として、なおも影響力を行使できると期待したことであろう。しかし、ミカエルはプセルロスを余り庇護しなかったようであり、1070年代後半以降には、宮廷でプセルロスが振るった影響については、殆ど見いだせなくなる。プセルロス自身の自伝的な記述も、この時期以降に関する記述は見られなくなる。研究者の中には、1070年代のある時期に彼が再び僧院に隠居したと見る者もいる。また、多くの研究者は、1078年にミカエル7世の没落して間もなく、プセルロスが没したと見ている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ミカエル・プセルロス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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