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ミケル・シトウ (Michael(Michel/Michiel/Miguel) Sittow 、1468年頃 - 1525年/1526年)は初期フランドル派の画家。レバル(現在のエストニア、タリン)出身で、画家としての生涯のほとんどをカスティーリャ女王イサベル1世やハプスブルク家などの宮廷画家としてスペイン、ネーデルラントで送った。シトウはこの時代でもっとも重要なフランドル派画家とみなされている 。 == 生涯 == シトウは1468年か1469年にレバルの裕福な家庭に産まれた。父親はフランドル人で画家、彫刻家のクラベス・ファン・デル・シトウで、母親は富裕な商人の娘でスウェーデン系フィンランド人のマルガレーテ・モルナールである。三人兄弟の長男で、クラウス、ヤスペルの二人の弟がいた。 1479年から1482年まで父親のもとで絵画を学んでいたが1482年に父親が死去する。その後1484年から1488年にかけて、当時のネーデルラントでも屈指だったブルッヘのハンス・メムリンクの工房で学んだ〔。シトウはブルッヘのギルドではマスターの資格は得ていない。この頃からすでに肖像画家として生計を立てていたと考えられており、イタリアを訪れるために南方へと旅した記録が残っている〔。 シトウは1492年から、カスティーリャ女王イサベルの宮廷画家としてスペインのトレドで活動している。イサベルは学者や芸術家たちを複数の国から招聘していた。 シトウはイサベルの宮廷内で「Melchior Alemán (ドイツ人メルキオール)」として知られるようになったが、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世やその娘マルグリット・ドートリッシュの書簡に書かれている「Mychel Flamenco(フランドル人ミケル)」という画家もシトウのことをさしていると考えられている〔。シトウはイサベルの宮廷内でもっとも多額の報酬を得ていた芸術家で、年間5万枚の金貨銀貨を受け取っていた。フアン・デ・フランデスがシトウについで高額の報酬を受け取っていたが、デ・フランデスの年俸は2万枚の金貨銀貨だった〔。シトウとデ・フランデスはイサベルのために共同で、イエスと聖母マリアの生涯を描いた一連の小さなパネル絵を作成している〔。 公式にはイサベルが死去した1504年までシトウが宮廷画家だったと記録されているが、実際はその2年前にスペインを離れていた。イサベルの娘フアナと結婚したハプスブルク家出身のフェリペ1世のために、おそらくフランドルで活動しており〔、サヴォイア公フィリベルト2世の肖像画を描いている。 シトウは1503年から1505年にロンドンを訪れたとされるが、記録は残っていない。現在ロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーが所蔵するイングランド王ヘンリー7世の肖像画はシトウの作品だと考えられている。この絵画は後にハンス・ホルバインらが君主の肖像画を描くときの手本となった作品であるが〔〔、本当にシトウが描いた絵画かどうかは不明となっている。また、ウィーンの肖像画に描かれているのが本当にカタリーナ・デ・アラゴンで、シトウがイングランドを訪れたときに描かれたのであれば、夫でヘンリー7世の王太子アーサーと死別した直後の肖像画になる。 フェリペ1世は1506年に死去し、イサベルに続いてまたもパトロンを失ったシトウはレバルへと帰郷する。レバルには生まれ育った家があったが、シトウの母親と再婚したガラス職人ディデリック・ファン・カテウィクが、母親が死去した1501年以来、その家を押収していた。ファン・カテウィクは1501年にブラバントに滞在しており、シトウに対して財産分与の申し出たが、後にこれを撤回した〔。シトウはレバルの裁判所に財産相続を訴えたが却下され、さらにリューベックの裁判所に上告した。この裁判はシトウが勝訴したが、両親の家はファン・カテウィクが死去する1518年まで、正式には取り戻すことが出来なかった〔〔。 シトウは1507年に地元の芸術家ギルドの一員となり、1508年に結婚した。シトウはすでにヨーロッパで名声を確立していたが、ギルドでは職人としてでしか登録されず、マスターとして認められるためには優秀な作品を描く必要があった〔。シトウはさまざまな注文をこなし、フィンランドのシウンチオ聖ペテロ教会にも絵画を納めている〔。 1514年にシトウはデンマーク王クリスチャン2世の肖像画制作のためにコペンハーゲンに招かれる。この肖像画はクリスチャン2世の婚約者でカスティーリャ女王イサベルの孫娘でもあるイサベル・デ・アウストリアへの贈り物になる予定だった。現在コペンハーゲン国立美術館が所蔵するクリスチャン2世の肖像画はおそらく模写であり、シトウが描いたオリジナルの肖像画は失われている。 その後シトウはコペンハーゲンからネーデルラント南部に赴き、ネーデルラント総督マルグリット・ドートリッシュに謁見している〔〔Martha Woolf, ''Michel Sittow'', Grove Art Online, accessed January 31, 2008〕。 ネーデルラントからスペインに戻ったシトウは、アラゴン王フェルナンド2世に仕えた。1516年にフェルナンド2世が死去すると、アラゴン王も兼ねることになった、後にカール5世として神聖ローマ帝国皇帝となるスペイン王カルロス1世にも仕えている。シトウがカスティーリャ女王イサベルからの未払いの給料を取り戻そうとしてスペインに行ったのではないかとする見解もある〔。カール5世が退位しユステ修道院に隠棲するときに、シトウが制作した聖母マリアの木像彫刻と3枚の絵画を持っていった逸話がある〔〔〔。 1516年(1517年か1518年の可能性もある)にシトウはレバルへと戻った〔。1518年には商人の娘ドロテアと再婚し長男のミケルをもうけたが、この子供は生後まもなく死去した。その後1523年にギルドのマスターの称号を入手している〔。 シトウは疫病にかかり、1525年12月20日から1526年1月20日のどこかで、レバルにて病没し〔、遺骸は聖霊教会 (''Pühavaimu kirik'') の救貧院墓地に埋葬された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ミケル・シトウ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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