|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。
ミゲル・アンヘル・アストゥリアス(Miguel Ángel Asturias, 1899年10月19日 - 1974年6月9日。ミゲル・アンヘル・アストリアスとも)は、グアテマラの小説家。キューバのアレホ・カルペンティエルと共に魔術的リアリズムの担い手となり、その後のラテンアメリカ文学ブームの先導者となった。 ==経歴== 判事でインディオの血をひく父と、教師をしていたインディオの母との間のメスティソとして生まれる。両親は独裁者エストラーダ・カブレーラに反抗したために職を追われ、ミゲルが5歳の時に祖父の住む田舎に移り、現地のインディオ達や母から伝説や様々な話を聞いて育つ。1917年にサン・カルロス・デ・グアテマラ大学医学部に入学するが、翌年法学部に転部。1920年にストラーダ・カブレラが失脚すると、友人達と学生運動に参加して、学生新聞発行に携わり、1922年に夜間のグアテマラ民衆大学設立に関わり、労働者に文法を教える。この年に書いた卒業論文「インディオの社会問題」が注目されて、翌年に出版される。しかし当時の反軍的言動でホセ・マリーア・オレリャーナの不興を買ったことで身の危険を感じ、1923年に大学を卒業すると、フランスのパリに渡りソルボンヌ大学に留学した。 ソルボンヌでは人類学者のジョルジュ・レイノー教授について、中央アメリカの古代文明の研究を進め、この頃から詩や小説を書き始めた。パリ留学時代には、ダダイストのトリスタン・ツァラ、シュルレアリストのロベール・デスノス、モンパルナスに集うアンドレ・ブルトン、ルイ・アラゴン、ポール・エリュアールなどと親交を持った。またこの時期、のマヤ神話の創世神話『』、の『』()の、レイノーによる仏訳からのスペイン語訳を行う。この時期には『グアテマラ伝説集』(1930)を著し、スペインで出版された翌年にフランス語訳されてシュルレアリストから高く評価され、またポール・ヴァレリーからはラテンアメリカ=魔術的アメリカに対する驚きとともに絶賛されて、脚光を浴びることになった。 1933年にグアテマラに戻るとアストゥリアスはジャーナリストとなり、独裁者ホルヘ・ウビコに近い人物とみなされたために1944年のウビコ失脚後は外交官として閑職に追いやられた。この時期にアストゥリアスは『大統領閣下』(1946)、『トウモロコシの人間たち』(1949)、『緑の法王』(1954)を著している。その後1954年のPBSUCCESS作戦後に成立したカスティーリョ・アルマス政権によって亡命生活を送ることになったが、その間に執筆した『混血女』("Mulata",1963) で広く作家として知られるようになり、アルマス政権が崩壊した後、遂には1966年に再びフランス大使に任命され、同年レーニン平和賞を授与された。そして、翌1967年ノーベル文学賞を受賞した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ミゲル・アンヘル・アストゥリアス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|