翻訳と辞書
Words near each other
・ ミコリシン
・ ミコロロメリオ大学
・ ミコロ・ロメリオ大学
・ ミコロ・ロメリョ大学
・ ミコワイ
・ ミコワイ2世 (ニェモドリン公)
・ ミコワイキ
・ ミコワイチク
・ ミコワイ・クシシュトフ・ラジヴィウ・シェロトカ
・ ミコワイ・コペルニク
ミコワイ・ヒェロニム・シェニャフスキ
・ ミコワイ・ボウトゥッチ
・ ミコワイ・ポトツキ
・ ミコワイ・ラジヴィウ (1470-1521)
・ ミコワイ・ラジヴィウ・チャルニィ
・ ミコワイ・ラジヴィウ・チャルヌィ
・ ミコワイ・ラジヴィウ・ルディ
・ ミコ・ヒューズ
・ ミコー
・ ミコール・クリスティーニ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ミコワイ・ヒェロニム・シェニャフスキ : ミニ英和和英辞書
ミコワイ・ヒェロニム・シェニャフスキ
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ミコワイ・ヒェロニム・シェニャフスキ : ウィキペディア日本語版
ミコワイ・ヒェロニム・シェニャフスキ

ミコワイ・ヒェロニム・シェニャフスキポーランド語:Mikołaj Hieronim Sieniawski, 1645年 - 1683年12月15日)は、ポーランド・リトアニア共和国の貴族、軍事指導者。
リヴィウ代官アダム・ヒェロニム・シェニャフスキと、王冠領大ヘトマンのスタニスワフ・レヴェラ・ポトツキの娘ヴィクトリアとの間に生まれた。1662年、リトアニア宮内長官アレクサンデル・ラジヴィウ公の娘ツェツィリアと結婚した。1666年より王冠領近衛隊長(Strażnik wielki)、1668年より王冠領大旗手1676年より王冠領宮内副長官1679年よりリヴィウ代官およびヴォルィーニ県知事、1682年より王冠領野戦ヘトマンおよびラドムロハティン、ピャセチュノの代官をそれぞれ務めた。
シェニャフスキは共和国を未曾有の危機が襲っていたヤン2世カジミェシュの治世に、コサックおよびタタールとの戦いで有能な指揮官としての名声を得た。大旗手の地位にあった時、彼はヤン・ソビェスキ(ヤン3世)による1673年ホチム遠征に同行している。また1676年3月にクラクフで開催されたヤン3世の戴冠に際しての議会では、議長を務めている。1683年、息子のアダム・ミコワイ・シェニャフスキと共に第二次ウィーン包囲に参加したが、その年の暮に死去した。



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ミコワイ・ヒェロニム・シェニャフスキ」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.