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ミシェル・バロン(本名 Michel Baron 、1653年10月8日 - 1729年12月22日)は、フランスの俳優、劇作家。モリエールの劇団ならびにコメディ・フランセーズの舞台で活躍した。モリエールの後継者の1人と見做されている〔フランス文学辞典,日本フランス語フランス文学会編,白水社,1979年刊行,P.556〕。 == 生涯 == 1653年10月8日、パリで生まれた。元々バイロン( ''Boyron'' )という苗字で、彼の両親はブルゴーニュ劇場にて活躍していた当代一流の俳優だったが、9歳の時に孤児となってしまった。12歳の時には王太子お抱えの児童劇団「プチ・コメディアンズ」に参加し、子役として人気を集め、早くも才能の片鱗を現した〔白水社 P.556〕。 そうしてモリエールの関心を惹くようになり、1665年に彼の率いる劇団に加入した。そのころ、モリエールは『メリセルト』という作品を準備中だったので、バロンにミルチルという少年の役を割り当てた。モリエールが非常に熱心にバロンの指導に打ち込んだため、彼の妻アルマンド・ベジャールが嫉妬し、バロンに平手打ちを食らわせた〔グリマレの「モリエール氏の生涯」の信憑性 小場瀬卓三 人文学報 (44), P.11, 1965-07,東京都立大学人文学部〕。 バロンも我慢ならず、すぐに退団しようとしたが、『メリセルト』は国王ルイ14世の御前で上演することになっていたため、役をすっぽかすことは出来なかった。そのためミルチルを演じ切ったが、それが終わるとすぐに退団し、地方の劇団へ移ってしまった。〔小場瀬 P.11〕。 しかしモリエールはその後もバロンのことが忘れられず、1670年に再び劇団へ呼び戻した。コルネイユの作品である『ティットとベレニス』のドミティアヌスや、モリエールの『プシシェ (戯曲)』でキューピッド役を演じた〔小場瀬 P.11〕。 モリエールの亡くなる1673年まで彼の劇団に所属していたが、それ以後はブルゴーニュ劇場に移籍した。この移籍の際にも、アルマンドと金銭のことで揉め事となった(後述)〔小場瀬 P.11〕。ブルゴーニュ劇場では座長となっていたが、1680年に国王ルイ14世の命を受けて他劇団と統合の末、コメディ・フランセーズと生まれた際にそのまま移籍した〔白水社 P.556〕。 1691年に引退するまで、バロンはコメディ・フランセーズにおいて誰しもが認めるリーダーとして舞台上で指揮を執った。彼は自作の『艶福家( ''L'Homme à bonnes fortunes '' )』ならびに彼の作品中最も有名な『コケット( ''La Coquette'' )』や、ラシーヌの戯曲においてその主役のほとんどを演じた。『Les Enlèvements and Le Debauche』を制作し、プビリウス・テレンティウス・アフェルの2作品を翻訳し、上演してもいる。 1691年に引退したが、再び1720年にパレ・ロワイヤルにて復帰し、非常に精力的に活動した。最晩年には、アドリエンヌ・ルクヴルールとともに定期的に舞台に立った。1729年12月22日に死去した。 彼の息子「エチエンヌ・ミシェル・バロン ''Étienne Michel Baron'' (1676-1711)」もまた俳優であった。エチエンヌの子供たちもみな、俳優となり、コメディ・フランセーズの舞台に立った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ミシェル・バロン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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