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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ミスオンワードは日本の競走馬。無敗で桜花賞、優駿牝馬(オークス)を制し、1956年に啓衆社賞最優秀3歳牝馬、1957年に同最優秀4歳牝馬に選出された。繁殖牝馬としても優秀であり、3頭の重賞優勝産駒がいる。 == 戦績 == ※馬齢は旧表記(数え)とする。 母ホールドタイトはハードソースの種を宿した状態で1954年にイギリスから日本に輸入され、来日後、ミスオンワードを出産した。このような経緯で生まれたものを持込馬と呼ぶ。 ミスオンワードは1956年、武田文吾厩舎に入厩し、10月に京都でデビュー。鞍上に武田厩舎の主戦騎手栗田勝を迎え、1番人気に応えて初勝利を挙げる。その後も牡馬を相手に3歳ステークス、3歳オープン戦、京都3歳ステークス 〔当時の関西3歳王者決定戦・阪神3歳ステークスのことであるが、本来の開催地である阪神競馬場が改修工事のため京都競馬場での施行となり、この年のみ「京都3歳ステークス」の名称で開催された。〕をいずれも快勝し、この年の最優秀3歳牝馬に選ばれた。 明けて4歳は桜花賞の2週間前の4歳オープン戦から始動し、危なげなくこれに勝利すると、桜花賞では単勝支持率75.4%という驚異的な支持率〔このレースにおけるファンのミスオンワードへの信頼は75.4%という支持率以上に絶対的なもので、予想馬が優勝しなければ的中とならない単勝馬券のオッズが1.0倍だったにも関わらず、予想馬が3着までに入れば的中の複勝馬券のオッズが1.1倍になるという珍しい現象も起こった。 〕に応え、前走で破ったヒシチヨに1馬身3/4差をつけての逃げ切り勝ちを収めた。続いてオークスへのステップレースを4馬身差で圧勝すると、本番のオークスも他馬を寄せ付けず快勝し、デビューから無傷の8連勝を飾った。 この強さにファンのみならず競馬関係者の間にも「ダービーに挑戦しては」という機運が高まり、オーナーの樫山も調教師である武田に意見を求めた。これに対して武田は難色を示したが、結局世論に押し切られる形で、オークスから連闘でのダービー出走が決まった。太平洋戦争以前の活躍馬であるクレオパトラトマス以来の無敗牝馬の出走に、レース当日は牡馬の一線級に混じっての3番人気に支持されたが、レコードタイムで優勝したヒカルメイジの17着に敗れる。しかしこの挑戦にファンは惜しみない拍手を送った。 当時はまだ牝馬の競走体系が未整備だったため〔エリザベス女王杯の前身に当たるビクトリアカップは1970年から開催。〕、秋以降は牡馬の一線級との戦いとなった。秋初戦のオープン戦を3着とした後、菊花賞のステップレース神戸杯を制し、菊花賞本番でも1番人気に支持されたものの、3番人気だったラプソデーの10着に終わっている。その後2戦1勝として4歳シーズンを計10戦6勝で終えたミスオンワードは最優秀4歳牝馬に選ばれた。 古牡馬相手となった5歳以降は3、4歳時のような活躍を続ける事はできなかったが、それでも多くのレースで人気を集め、 目黒記念(秋)に勝利、天皇賞(秋)でも2着に入るなど、14戦4勝・2着3回・3着4回と健闘を続けた。年末の有馬記念7着を最後に競走馬を引退、繁殖牝馬となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ミスオンワード」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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