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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ミスター・フジ(Mr. Fuji)のリングネームで知られるハリー藤原(Harry Fujiwara、1935年5月4日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー、プロレス・マネージャー。ハワイ州ホノルル出身の日系アメリカ人。生年は1934年、1937年など諸説ある。 現役選手時代は狡猾な日系ヒールとして鳴らし、プロフェッサー・タナカやマサ斎藤をパートナーにWWWF / WWFタッグ王座を通算5回獲得。引退後はWWFでマネージャーに転身して活躍した。ギミックではなく純粋な日系人だが、日本語はほとんど話せない〔『THE WRESTLER BEST 1000』P174(1996年、日本スポーツ出版社)〕。アメリカでは大阪府出身という設定だった。 == 来歴 == 少年時代からハワイ相撲で体を鍛え、のちにYMCAのジムで同じ日系レスラーのラバーメン樋上にレスリングを学び〔、1962年にデビュー〔。当初はミスター・フジワラ名義で地元ハワイを主戦場に活動、1965年1月7日、カーティス・イヤウケアと組んでロード・ブレアース&ネフ・マイアバからNWAハワイ・タッグ王座を奪取している。1966年よりアメリカ本土の太平洋岸北西部に進出し、オレゴンやワシントン一帯をサーキットエリアとするパシフィック・ノースウエスト・レスリング(ドン・オーエン主宰)に定着。ムーンドッグ・ロニー・メインとNWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を争う。1971年にはシンタロー・フジのリングネームでオーストラリアに遠征、5月にタイガー・ジェット・シンと組んでカーティス・イヤウケア&マーク・ルーインを破り、豪州版のIWA世界タッグ王座を獲得した。 1972年、ミスター・フジとしてニューヨークのWWWFに登場。トール・タナカと日系悪役コンビを結成し、同年6月27日と翌1973年9月11日の2度にわたってWWWF世界タッグ王座を奪取した〔。タナカとはNWAジョージア地区にも揃って参戦し、1975年9月に行われたトーナメントに優勝して同地区認定のタッグ王座も獲得している。シングルでは、1976年2月7日にサンフランシスコでパット・パターソンを下し、同地区のフラッグシップ・タイトルであるNWA USヘビー級王座を奪取。この間、1974年5月に全日本プロレスに初参戦している〔。 1977年にニューヨークに戻り、タナカとのコンビを再結成。同年9月27日、チーフ・ジェイ・ストロンボー&ビリー・ホワイト・ウルフのインディアン・チームを破り、WWWF世界タッグ王座への3度目の戴冠を果たす〔。1979年はタナカと共にテネシー州メンフィスのCWAに登場、5月14日にロバート・フラー&ビル・ダンディーを下してAWA南部タッグ王座も獲得した。同年はニュージーランドにも遠征し、9月3日にピーター・メイビアからNWA英連邦ヘビー級王座を奪取している。 1980年にタナカとのタッグチームを解散し、プエルトリコのWWC参戦を経て同年10月に全日本プロレスに3回目の来日(2回目は1979年1月)〔。このときは日本陣営の一員となり、凱旋帰国したミスター・サクラダのパートナーに起用され、アブドーラ・ザ・ブッチャーやキラー・トーア・カマタと流血戦を演じた。翌1981年はジム・クロケット・ジュニアの運営するノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区に参戦、海外再修業中だった天龍源一郎と組み、2月7日にデューイ・ロバートソン&ジョージ・ウェルズを破ってNWAミッドアトランティック・タッグ王座を獲得している。同年7月にはカナダのトロントにてアンジェロ・モスカとNWAカナディアン・ヘビー級王座を争った。 1981年下期より、サンフランシスコでもタッグを組んだことのあるミスター・サイトーを新しい相棒にWWFに復帰。同年10月13日にリック・マーテル&トニー・ガレア、翌1982年7月13日にチーフ・ジェイ・ストロンボー&ジュールズ・ストロンボーを下し、WWFタッグ王座を2度獲得、改称前のWWWF世界タッグ王座と合わせ、ニューヨークのタッグタイトルを5回に渡って手中にした〔。1982年12月2日にはブルックリンにて、海外遠征中だったタイガーマスクと対戦。反則負けを喫したものの、タイガーマスクがWWFサーキットにおいてフォールを取ることのできなかった唯一のレスラーとなった〔『Gスピリッツ Vol.32』P31(2014年、辰巳出版、ISBN 4777813304)〕。以降もWWFに定着し、サイトーの離脱後はタイガー・チャン・リーと新コンビを結成。1984年よりスタートしたビンス・マクマホンの全米侵攻ツアーにも参加し、1月のTVテーピングではハルク・ホーガン&ボブ・バックランドの新旧WWF王者コンビとも対戦した。 1985年にセミリタイアし、燕尾服・ステッキ・山高帽というスタイルの日系マネージャーに転向。以降1996年まで、10年以上に渡ってWWFの悪徳マネージャーとして活躍、デモリッションを担当した際は彼らに合わせて顔にペイントを施し、相撲ギミックのヨコズナに付いたときにはキモノ(浴衣)を着用していた。1996年、右膝の古傷が悪化したこともあり、3月31日のレッスルマニアXIIを最後にWWFを退団、プロレス界から引退した。同時期、フジはヨコズナと共にベビーフェイスに転向しており、最後の舞台を善役として終えることとなった〔。 引退後はテネシー州のノックスビルに居住。2001年までテネシーのジェファーソン・シティとダンドリッジにトレーニング・ジムを運営していた。2007年3月31日、ミシガン州デトロイトのフォックス・シアターにてWWE殿堂入りを果たす〔。インダクターはマネージャー時代の「クライアント」である、同じハワイ出身のドン・ムラコが務めた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ハリー藤原」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Mr. Fuji 」があります。 スポンサード リンク
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