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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
松原 誠(まつばら まこと、1944年1月13日 - )は、埼玉県飯能市出身の元プロ野球選手(内野手)、野球指導者、野球解説者。 初優勝後の1960年代から1970年代の弱小時代の大洋の4番を打ち、ミスター・ホエールズと呼ばれた。一塁守備の際の「タコ足」と呼ばれた低い姿勢での捕球も高く評価された。 == 経歴 == 埼玉県立飯能高等学校では夏の甲子園県予選準決勝に進むが、熊谷商工に敗退。、大洋ホエールズに捕手として入団。しかし捕手としての能力に限界を感じ、に一塁手へ転向、に定位置を獲得する。しかしには三塁手を兼ね、桑田武と併用される。翌年には別当薫監督との軋轢もあって桑田がレギュラーから外され、結果として三塁手に定着した。 に30本塁打を放ち、同年から8年連続20本塁打以上を記録し長打力のあるスラッガーとして、低迷していたチームの四番として活躍。に一塁手へ再転向。にロッテから移籍してきた江藤愼一を参考に打撃を改良し、には初めて打率3割をマーク。打撃タイトルには縁がなかったが、長きにわたりチームリーダーとして選手を率いる。には通算2000安打を達成〔2006年のシーズン途中、横浜スタジアムの右中間スタンドの最前列に松原の2000安打達成を記念するプレートが、200勝達成の平松政次のもの、同じく2000安打を達成した駒田徳広、石井琢朗のもの、250セーブ達成の佐々木主浩のものと共に飾られた(2012年よりライトスタンド後方に移動し、現在は2013年に2000安打を達成したアレックス・ラミレス、中村紀洋のプレートも加わった)。〕。 日本プロ野球選手会を社団法人化させ、選手会長として選手の先陣に立ち球団と幾度と無く議論を重ねてきた。しかし、その活動が球団に忌避されたこともあり、に古賀正明との交換トレードで読売ジャイアンツに移籍。この際、「巨人に移籍しても嬉しくない、大洋で優勝するのが目標だった」と会見で涙した。同年、巨人で自身初、唯一のリーグ優勝、日本シリーズ優勝を経験した。日本ハムとの日本シリーズの第1戦では9回裏に代打で登場し、抑えの切り札である江夏豊より生涯最後の本塁打を放った。同年限りで現役を引退。 引退後はからまで大洋一軍打撃コーチを務め、高木豊や屋鋪要の打撃開眼に一役買った。からまで巨人二軍打撃コーチ、からまで巨人一軍打撃コーチを務める。巨人コーチ時代、指導した選手の調子を落としてしまったことから、「壊し屋」と呼ばれたが、実際は周囲が言うほど指導力は悪くなかったと言われている(松原の指導を受け打撃が開花した駒田徳広は、楽天の打撃コーチに就任する際「理想の打撃コーチ像は松原誠さん」とコメントしている)。ただ、選手個々にあまりにも高い理想を求めてしまったことが選手の混乱を招いたとされ、に「アジアの大砲」と呼ばれ華々しくデビューしながらその後伸び悩んだ呂明賜が松原の指導を批判していたこと(但し、呂自身が同年の後半からすでに伸び悩んでいた)や、当時巨人は投手陣のレベルが非常に高く、一般に「投高打低」のチームと見られていたことも打撃コーチとしての評価を下げる一因となった。 その後、からまで文化放送、tvkの野球解説者を経て、名球会の活動で親交を深めたに監督に就任した山本浩二に請われて、まで1990年代以降の広島球団のでは数少ない他球団出身者〔1970年代までは、他球団出身の監督・コーチが相当数在籍したが、Aクラスの常連となった1980年代以降、生え抜きまたはそれに準じる立場の広島OBを中心に構成されるようになった。〕として一軍チーフ兼打撃コーチを務める。に山下大輔監督の下で20年ぶりに古巣に復帰し、横浜ベイスターズ一軍ヘッド兼打撃コーチを務めた。広島コーチ時代は監督の身代わりで退場になったこともある。 以降、回数が減ってはいるが、文化放送の野球解説を務めている〔9月10日ホームランナイター巨人対広島戦以降は、文化放送のナイター中継に出演していない。〕。また、同じく時おりtvkのベイスターズナイターの解説も務める(特に年に一度の相模原球場での試合の解説は恒例になっている)。 2009年、2010年には韓国プロ野球・起亜タイガースの臨時インストラクターを務め、日本での春季キャンプや、シーズン中は韓国に招かれ打者たちを指導した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松原誠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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