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Mr.マリック
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
Mr.マリック(ミスターマリック、本名:松尾 昭(まつお あきら)、1949年1月1日(戸籍上。実際の日付は1948年12月29日) - )は、マリックプロモーション所属の日本のマジシャン。「超魔術師」と名乗る。 == 人物 == 「マリック」という名前は「マジック」と「トリック」を合わせた造語である。また、松尾幻燈斎(まつおげんとうさい)、栗間太澄(くりまたすみ)という別名を持つ。「くりまたすみ」は、「みすたまりく(ミスターマリック)」を逆さにしたもの。 岐阜県岐阜市生まれ。岐阜市立伊奈波中学校、岐阜県立岐阜工業高等学校卒業。当時の師匠は歯科医である。高校卒業後はガス器具メーカーのパロマ工業に就職するが、マジックへの夢を達成するために数多くのコンテスト番組で優勝し、ようやく親の理解を得て転職。デパートのおもちゃ売り場でテンヨーマジック用品の店頭販売を始める。デパートでのマジック用品店頭販売の後、マジックショップ経営や新人指導、全国でマリックマジック教室を開設。 20歳のときに上京し、マジック用品メーカーに勤務する。この年ハワイで初めて開催されたPCAM(環太平洋のマジックアソシエーション)の「クロースアップ部門」コンテストで日本人で初めて優勝する。 名門ホテルでのラウンジでクロースアップ・マジックのテーブルホッピングショーを確立しラウンジライブを全国展開する。そのさなかに日本テレビのディレクターと出会ったのがきっかけで、1988年、日本テレビ系『11PM』に出演するようになる。クロースアップ・マジックに超能力的な演出を付け加えた「超魔術」は、マリックが番組制作スタッフらと考え出した造語である。ユリ・ゲラーの"超能力"番組を見たのが超魔術を編み出すきっかけになった。 超能力ブーム華やかなりし頃、マリック本人もユリ・ゲラーの超能力と酷似するショーを行って収入を得ていた。しかしあるイベントにおいてマリックの技を見た観客が超能力肯定派と否定派で真っ二つに対立し、一触即発の緊張状態となった会場でマリックは咄嗟に「ハンドパワーです」とアピール。これにより殺気立っていた観客は得心して平静を取り戻す。後、「本物の超能力者?」「手品と同じでタネがある?」という疑問には全て「ハンドパワーです」と答え、この台詞はマリックの専売特許とも言うべきものとなっている。超能力や占いの類を蛇蝎の如く嫌っていた元タレントの上岡龍太郎もマリックの技を懐疑的な目で見ていたが「ハンドパワーです」の説明でマリックと打ち解けた。なお、別バージョンでは「手力(てじから)です」もある。このフレーズは流行語となり、あちこちのバラエティや漫画でパロディされた。 登場時やマジック披露後には専用BGMが流れる。曲はアート・オブ・ノイズ (The Art of Noise) の『レッグズ (Legs)』である(legacyというタイトルでベスト盤に収録されている場合もある)。 サングラスをトレードマークにしており、NHK番組『課外授業 ようこそ先輩』でも 子どもたちにだけサングラスを外した顔を見せるなど、テレビ画面では滅多に目を見せない。バラエティ番組で松尾幻燈斎として出演したときや、マギー司郎、ゼンジー北京に扮したときなど、ごく稀にサングラスを外す(後述のドラマ出演の際も同様)。また、テレビに出始めのころは素顔で出演することもあった。 クロースアップ・マジック演者であるふじいあきらは、マリックの弟子であり、アシスタント役のふじいと共に出演している番組映像も残っている。2001年までアシスタントとして雇っていたが、ふじいは、周囲に漏らしていた愚痴がマリックに伝わることを恐れ、逃げ出した。その後、テレビ番組で2人は共演し、和解した。 娘はヒップホップ歌手のLUNA。 古典奇術を現代的手法・演出で蘇らせる能力が高く、毎年公演されるマリックのライブツアーは高い完成度と不思議さ、楽しさが融合している。また、銀座博品館劇場ではMr.マリック超魔術団公演を旗揚げさせ、内外有力な若手マジシャンとともに、ストーリー仕立てのマジックエンターテイメントに挑戦、ステージでも精力的に活動をしている。 奇術愛好家を増やすための活動や、日本国外そして国内若手マジシャンとのコラボレーションなども行う。また、歌舞伎や芝居、松任谷由実などのアーティストコンサートの演出も監修する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「Mr.マリック」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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