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ミセス・ウォレス・リード : ミニ英和和英辞書
ミセス・ウォレス・リード[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ミセス・ウォレス・リード ( リダイレクト:ドロシー・ダヴェンポート ) : ウィキペディア日本語版
ドロシー・ダヴェンポート[ちょうおん]

ドロシー・ダヴェンポート(, 1895年3月13日 - 1977年10月12日)は、アメリカ合衆国女優脚本家映画監督映画プロデューサーである〔Dorothy Davenport, Internet Movie Database , 2010年6月24日閲覧。〕。後年ドロシー・リード()と名乗り、ウォレス・リード夫人()ともクレジットされた〔。
== 人物・来歴 ==
1895年(明治28年)3月13日マサチューセッツ州ボストンに生まれる〔。父母ともに俳優のハリー・ダヴェンポートアリス・ダヴェンポート、父方の祖父も俳優のエドワード・ルーミズ・ダヴェンポート、父方の伯母も女優のファニー・ダヴェンポートである。3歳上の姉アン、1歳下の妹ケイトものちに女優となった〔。
1910年(明治43年)には、映画に出演し始め、D・W・グリフィス監督の ''A Mohawk's Way'' でインディアン役を演じたのが、もっとも古い映画への出演記録である〔。その後、多くの短篇西部劇に出演する〔。1913年(大正元年)10月13日、4歳年上の俳優で映画監督のウォーレス・リードと結婚する〔。ウォーレスもまた父ハル・リードが映画監督兼俳優、母も女優である〔, 2010年6月24日閲覧。〕。当時、ドロシーはユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチュアリング・カンパニー(現在のユニバーサル・ピクチャーズ)に在籍し、同社傘下のバイソン・スタジオ等が量産する短篇映画に出演している〔。1916年(大正5年)には、ロイド・B・カールトンが監督し、エモリー・ジョンソンと共演する短篇に多く出演するなかで、同年にユニヴァーサル傘下に設立されたブルーバード映画で、カールトン監督、エモリーとの共演で『此の血潮』、 ''A Miracle of Love'' に主演、翌1917年(大正6年)には アレン・ホルバー監督・主演の『肉弾』でホルバーの相手役を演じている〔。これらは1作を除いて日本でも公開された〔『ブルーバード映画の記録』 : 製作・著・発行山中十志雄・塚田嘉信、1984年4月、p.60-63.〕。同年6月18日には、長男のウォレス・リード・ジュニアを出産、同社を退社した〔, 2010年6月24日閲覧。〕。
1920年(大正9年)には、『奮闘の機会』に出演して映画界に復帰するが、本格的に復帰するのは、1923年(大正12年)1月18日、夫ウォーレスと死別した後である〔。同年、ドロシー・ダヴェンポートの名を捨てて「ウォレス・リード夫人」を名乗り、ジョン・グリフィス・レイトーマス・H・インスの協力の下に脚本を書き、初めて監督業に進出、セルフプロデュースした主演作『人類の破滅』を発表する〔。1932年(昭和7年)には、ジュニアが主演する映画 ''The Racing Strain'' に原作をノンクレジットで提供している〔。1934年(昭和9年)、自らの監督作 ''The Road to Ruin'' にノンクレジットで出演したのを最後に女優を廃業し、同年、 ''The Woman Condemned'' を最後に全5作で監督業からも撤退、プロデューサー業・脚本業に専念する〔。1935年(昭和10年)前後から、筆名を「ドロシー・リード」と改めている〔。
1941年(昭和16年)以降、第二次世界大戦中は沈黙するが、1947年(昭和22年)には脚本家としての活動を再開し、バーナード・カーアーサー・ルービンの監督作に脚本を提供した〔。1956年(昭和32年)、アーサー・ルービン監督の『最初の女セールスマン』のダイアローグを監修したのを最後に、引退した〔。
1977年(昭和52年)10月12日カリフォルニア州ロサンゼルス郡ロサンゼルス市ウッドランド・ヒルズで死去した〔。満82歳没。同郡グレンデールにあるフォレスト・ローン・メモリアル・パークに眠る〔Dorothy Davenport, Find A Grave , 2010年6月24日閲覧。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ドロシー・ダヴェンポート」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Dorothy Davenport 」があります。




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