|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ミッキー・マントル(Mickey Charles Mantle、1931年10月20日 - 1995年8月13日)は元メジャーリーガー(外野手)。 通算536本塁打はスイッチヒッターとしてはMLB史上最多。ロジャー・マリスとのコンビはMM砲と呼ばれ、ともにヤンキースの主砲として活躍した。 == 経歴 == アメリカ合衆国オクラホマ州出身。実父は炭鉱夫。"Mickey"は"Michael"の愛称であることがほとんどだが、マントルの場合、父のマット・マントルが当時人気のあった捕手ミッキー・カクレーンの大ファンであったことに因んでつけた本名である。ちなみにミッキー・カクレーンの本名はゴードンであったがマットは知らなかった。後にマントルはこのことを知り安心したという。 ニューヨーク・ヤンキースに入団するまではミシシッピ川の東に渡ったことも無かったという。 なおマントルには双子の弟がいたが、素質はあったもののメジャーリーガーになれなかった。子供時代はホィズ・キッズというチームでプレーし、ショートを守っていた。ヤンキースのスカウト、トム・グリーンウェイドが見に来ていた試合で、右打席で2本、左打席で1本ホームランを打った。 1951年、ジョー・ディマジオの後を継ぐようにヤンキースの一員としてメジャーデビュー。監督のケーシー・ステンゲルに「フィノメナル」(驚異的)と言われたことから「フィノム」と呼ばれるようになる。デビュー当初は実力の壁にぶつかり、マイナー落ち。マイナーでも22打席ノーヒットを喫する。カンザスシティから父に相談の電話をすると、父はオクラホマ州から150マイルの距離を駆けつけた。そして荷物をかばんに詰め、ミッキーに鉱山で働くように言い渡した。ミッキーは父を説得し、マイナーリーグで3割5分6厘、15本塁打、50打点を打った。 1956年には三冠王を獲得した。スイッチヒッターでは初の達成で現在でも唯一の記録であり、三冠王達成者の最多本塁打記録となっている。ロジャー・マリスとのコンビはMM砲と呼ばれ、1961年にはマリスとマントル両者によるベーブ・ルースのシーズン60本塁打の記録更新が注目されたが、結局マントルは終盤に故障で離脱、マリスが記録を更新した。1968年に引退するまで怪我との戦いではあったが、ヤンキース一筋の野球人生を過ごした。背番号「7」は引退した翌年の1969年にヤンキースの永久欠番に指定されている。1974年、資格取得1年目にアメリカ野球殿堂入り。 通算の打点と安打数は後にエディ・マレーに破られたが、通算536本塁打は今もスイッチヒッターとしてはMLB史上最多で、MLB史上最高のスイッチヒッターとして名高い。また、ワールドシリーズにおける通算18本塁打、40打点はいずれもMLB記録である(2013年終了時点)。なお、マントルは選手生活を1964年限りで止めればよかったと後に語っているが、これは通算打率が3割を切った事に非常にコンプレックスを持っていたためだという。 故障には始終悩まされていた。1951年のワールドシリーズで、外野守備中にスプリンクラーに足をひっかけて膝を痛め、1963年にはフェンスに激突して65試合にしか出場できなかった。それでも数々のタイトルを獲得しているので、同僚のエルストン・ハワードは「怪我がなければ史上最高の打者になっていただろう」「年間70本も夢じゃなかった」と言う。 本塁打の飛距離は伝説的なものがあり、球史に残る超特大の一発を何本もを記録している。その一つが1953年4月17日、ワシントン・セネタース(現:ミネソタ・ツインズ)の本拠地グリフィス・スタジアム(当時)で放った打球は、スタンドを飛び越えて遥か彼方の場外にまで飛び出して行った。球団広報が巻尺を用いてボールがあった地点までの飛距離を計測した結果、なんと約172メートルも飛んでいたことが分かり、正式に記録された打球としては、これが現在でもMLB史上最長弾となっている。この一件以降、大ホームランはテープメジャー・ショットと呼ばれるようになった。ただし、この約172メートルにはボールが落下してから転がって移動した距離も含まれており、正確な飛距離ではないとも言われている。 マントル本人が「私の野球人生の中で最も強烈な打球」と語っているのは、1963年5月22日にヤンキー・スタジアムでビル・フィッシャー(アスレチックス)のカーブをとらえたもので、ヤンキースタジアムのライト最上部の鉄傘に直撃して跳ね返り、もう少し打球が高ければ場外ホームランだったという驚愕のものである。この本塁打の飛距離については諸説あるが、いかにマントルの飛距離が人間離れしているかがよくわかる。監督のケーシー・ステンゲルはその天性のパワーがあれば全力で振らなくてもコンパクトなスイングをすれば確実性もあがるとマントルを幾度となく説得したが、マントルは耳を貸さなかったという。 また、マントルは左打席から一塁まで3.1秒で到達できた俊足で、ドラッグバントも得意としていた。チームの試合スタイルが変わっていたら、40-40(40本塁打40盗塁)どころか、50-50(50本塁打50盗塁)もできていたとも言われる。他にも現役時代は指名打者制度がまだなかった(導入されたのは1974年から)ため、もし導入されていればもっと長く現役生活を続けられていただろうと言われている。 「王冠を賭けた恋」で有名なウィンザー公は彼のファンとしてマントルの現役時代にヤンキー・スタジアムのロッカールームを訪れている〔。 しかし、私生活の面では暗い部分があり、祖父・父ともに早くして亡くなったため(ホジキン病による。2人ともオクラホマの鉱山技術者だったことも一因とされる。)に、早世の家系だと思い込んだマントルは、その恐怖を紛らわせるために飲酒に走り、選手生活の晩年には二日酔いの状態でバッターボックスに立つこともあったという。結局、その飲酒がマントルの現役生活や寿命を縮めたともされ、1994年に肝臓癌と診断され、テキサス州ダラスのベイラー大学メディカルセンターに入院。生体肝移植手術を受け、周囲を心配させる(もっともこの頃のマントルはさすがに酒をきっぱりと断っており、一時は周囲を安心させた)。 しかし、癌は全身に転移しており、翌1995年8月13日、63歳で亡くなった。死の1か月前の7月、入院先のベイラー大学メディカルセンターにて行った記者会見に臨んだマントルは、「私はいい手本だ。どうか私のようにはならないでほしい。(This is a role model, Don't be like me)」と言い残している。 ジョー・ディマジオがアーネスト・ヘミングウェイの『老人と海』をはじめ多くの作品で取り上げられていることは有名だが、マントルもまたスティーヴン・スピルバーグの映画『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』のなかで、レオナルド・ディカプリオ演じる詐欺師の主人公が、「ヤンキースはなぜ強いのか知ってるかい?対戦相手がヤンキースの縦縞のユニフォームに見とれているからさ」と言うと、トム・ハンクス演じる刑事が「ヤンキースが強いのはミッキー・マントルがいるからであって縦縞に見とれているわけではない。」というやり取りにおいて取り上げられている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ミッキー・マントル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|