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ミック・ロンソン(Mick Ronson、1946年5月26日 - 1993年4月29日)は、イギリスのロック・ギタリスト、音楽プロデューサー。デヴィッド・ボウイ、イアン・ハンター等との活動で有名。 「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第64位、2011年の改訂版では第41位。 == 来歴 == イングランドヨークシャー州の工業港町キングストン・アポン・ハルに生まれる。教育熱心で音楽の教養を身につける事が大切と考えていた両親の影響で、ピアノ、アコーディオン、リコーダー、ヴァイオリン等の様々な楽器を習う。幼少期の夢はコンサートピアニストであったが、TVで見たヤードバーズ、ビートルズ等に影響を受けてロック・ギタリストを目指す。 地元のマリナーズやキングビーズといったローカルバンドに参加・やがて10代半ばでロンドンに移住し、さまざまなバンドを転々とする。日中は自動車工場で生活費を稼ぎ夜はバンド活動を行う生活をしていたが、レコード契約も得られず生活の行き詰まりを理由に65年に故郷のハルにもどる。1967年頃、地元ハルで活動していたザ・ラッツに加入。ロンソンの粗削りだが鋭角的で非凡な演奏が話題になり、バンド演奏もロンソンのギターをフィーチャーする形でR&B調からヘビーメタルなものへと変化し、地元で人気を博す。やがて1969年にはラッツを辞め、ハル私営公園課の庭師になり、ミュージシャン時代に抱えた、機材購入等による多額の借金の返済をしながら生活する日々を送る。 当時、元ザ・ラッツのドラマーであったジョン・ケンブリッジが、音楽プロデューサーのトニー・ヴィスコンティを介してデヴィッド・ボウイのバンドに参加することになり、そのジョン・ケンブリッジからの誘いでロンソンも参加する事になる。 ボウイの『世界を売った男』(1971年)に参加。その後自分のバンドで活動しようとするが、ボウイに引き留められ、『ハンキー・ドリー』(1971年)から『ピンナップス』(1973年)に至るまで、ボウイのレコーディングやライブをサポート。この頃のボウイのバック・バンドは、スパイダーズ・フロム・マースと呼ばれた。また、1972年にはルー・リードの作品『トランスフォーマー』を、ボウイと共同プロデュース。 ボウイと袂を分かった後、ミックはスパイダーズ・フロム・マースのメンバーを従えて、初のソロ・アルバム『SLAUGHTER ON 10TH AVENUE』(1974年)を制作・発表。続いてモット・ザ・フープルに加入。『Saturday Gigs』をシングルで発表し、ヨーロッパツアーを行うが、ほどなくバンドの中心人物であるイアン・ハンターともどもモット・ザ・フープルを脱退。ミックはイアンのソロ・アルバム『IAN HUNTER』(1975年)にギターとプロデュースで参加し、それと並行して、自分のアルバム『PLAY DON'T WORRY』(1975年)を制作・発表。これは、ミック存命時にリリースされた最後のソロ・アルバムとなった。 1975年秋には、イアン・ハンターからボブ・ディランを紹介され、ディランの伝説のコンサート・ツアー『ローリング・サンダー・レヴュー』のサポート・メンバーに抜擢された。 1979年から1981年までは再びイアン・ハンターと共に活動。その後は、セッション・プレイヤーや音楽プロデューサーとしての活動が中心となるが、1989年には旧友イアン・ハンターと共に、ハンター=ロンソン・バンド名義で『YUI ORTA』発表。 1991年頃、肝臓癌の告知を受けるが、ミックは音楽活動を諦めなかった。モリッシー『ユア・アーセナル』のプロデュース、ワイルドハーツ『アースVSワイルドハーツ』へのゲスト参加に加え、フレディ・マーキュリー追悼コンサートでは旧友デヴィッド・ボウイと共演し、更にボウイの『ブラック・タイ・ホワイト・ノイズ』にもゲスト参加する。また、自身の新作も制作していたが、1993年4月29日に他界。翌年、ミックが録りためていた音源は、遺作『ヘヴン・アンド・ハル』として発表された。同作には、デヴィッド・ボウイやイアン・ハンターといった旧友に加えて、ジョー・エリオット(デフ・レパード)、クリッシー・ハインド(プリテンダーズ)、ジョン・メレンキャンプ等が参加。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ミック・ロンソン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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