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ミッチェル撮影機(ミッチェルさつえいき、)は、かつて存在したアメリカ合衆国の撮影機の製造企業()、そしてその製品(撮影機)のラインである。1919年(大正8年)、ヘンリー・ボガーとジョージ・アルフレッド・ミッチェルのふたりが設立、1985年(昭和60年)に買収されて消滅した。 == 略歴・概要 == 同社の最初の撮影機は、1917年(大正6年)にジョン・E・レナードが設計・特許取得したもので、1920年(大正9年)、それはミッチェルスタンダード撮影機として知られることになる。遊星連動式の(合衆国特許1,297,703号)と、ユニークなラック・オーヴァー設計(合衆国特許1,297,704号)を備えたものであった。 ミッチェル社は、テクニカラー式の三色法カメラのための機械部分を供給し(1932年)、他の65mmフィルム(70mmフィルム)やビスタビジョン改造機を供給し、後には、ノーマルスピードにも高速度撮影にも堪えうる完全な65mmフィルム用撮影機やビスタビジョン用撮影機を供給した。 三頭付の背景板式映写機は、テクニカラーの三色法処理に発展した。ミッチェルピン登録処理映写機(MPRPP)の初期の1台は、『風と共に去りぬ』(1939年)で使用された。シリアルナンバーは2番であった。このシステムは、ブルーバックあるいはグリーンバック撮影と張り合える時代であった1990年代にも使用された。 1953年(昭和28年)3月、ジョージ・アルフレッド・ミッチェルは、ミッチェル撮影機の設計・開発および映画撮影の分野における継続的・支配的な存在に対して、第25回アカデミー賞でアカデミー名誉賞を受賞している〔Oscar Legacy: The 25th Academy Awards , 映画芸術科学アカデミー , 2011年11月29日閲覧。〕。 米国でも日本でも、大型のミッチェル撮影機が愛用された。日本の松竹蒲田撮影所にミッチェル撮影機が導入されたのは、1928年(昭和3年)であった〔日本映画テレビプロデューサー協会、p.414.〕。 ジャン=リュック・ゴダールは、『はなればなれに』〔MacCabe, p.346.〕『男性・女性』ではアリフレックスと併用して〔MacCabe, p.348.〕、『アルファヴィル』ではと併用して〔MacCabe, p.347.〕、『万事快調』〔MacCabe, p.357.〕『女は女である』ではロケではカメフレックス、スタジオ撮影ではミッチェルを使用している〔MacCabe, p.342.〕。『女と男のいる舗道』ではミッチェルだけで撮った〔MacCabe, p.343.〕。『ベトナムから遠く離れて』(1967年)の第6章『カメラ・アイ』でゴダールとともに登場するのがミッチェル撮影機である〔ベトナムから遠く離れて 、キネマ旬報映画データベース、2011年11月29日閲覧。〕。小津安二郎もミッチェルNC型撮影機を愛用しており〔映画用語集 、月刊シナリオ公式ウェブサイト、2011年11月29日閲覧。〕、2003年(平成15年)10月23日に発行された小津安二郎生誕100年の記念切手『映画監督青春の地』は、小津がミッチェル撮影機とともに映る写真を80円切手にデザインしている〔映画監督青春の地 、日本郵便、2011年11月29日閲覧。〕。 1969年(昭和44年)3月、ミッチェル社は、とともに、第41回アカデミー賞でアカデミー科学技術賞を受賞している。 1985年(昭和60年)、に買収されて消滅した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ミッチェル撮影機」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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