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ミト車 ( リダイレクト:オイ車#120t戦車 ) : ウィキペディア日本語版
オイ車[おいしゃ]

オイ車(オイしゃ)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の試作戦車重戦車)。大イ車(おおイしゃ)、ミト車(ミトしゃ)とも。
「オイ車」は陸軍側の呼称、「ミト車」はメーカー側の呼称である。
1940年(昭和15年)前後に開発された重量100t車と、1944年(昭和19年)から1945年(昭和20年)にかけて開発された120t(140t、150t説もあり)車の2種類があり〔100t級戦車が2種類あったとする説の根拠は、原乙未生著『日本の戦車』の記述による。2種類あったとする説は、新資料により1種類しかなかったことが判明し、否定された。〕、一般的には後者がオイ車と呼称されるが、資料時点での混同が見られる。生産数はどちらも1輌、主砲はどちらも105mm砲〔予想完成重量120t、105mm砲説の根拠は、「戦車マガジン」1979年10月号に掲載された、開発関係者の記憶に基づく記事『真相はこれだ!日本でも作られた100t戦車』による。〕とされる。
一方、2種類があったとするのは情報の錯誤であり、当時の日本に超重戦車を2種類も開発する余裕があったとは常識的に考えにくく、両車は同一の車輌であったとする説がある。新説では、100tは実際に造られた試作車の車体部分のみの重量であり、(製作されなかった、あるいは、未搭載の)砲塔を搭載した完成状態の予想重量が150tだったとされる。1941年4月、陸軍が三菱重工に発注し、試作車の車体部分が42年4月に初めて試運転され、結果は惨憺たるもので、開発は中止され、結局、解体されたとされる。主砲は、従来説の九二式十糎加農砲の改修型ではなく、九六式十五糎榴弾砲(23.6口径149.1mm)の改修型を、主砲塔に装備予定であったとされる。オイ車の15cm砲が(おそらくリベット接合車体の)M3スチュアート軽戦車をバラバラに吹き飛ばす試射の映像が残っているとされる。副砲塔は、47mm戦車砲塔を車体前部に二基、双連7.7mm重機関銃塔を車体後部に一基。
以下は従来説である。
== 100t戦車 ==

1939年(昭和14年)、ソ連軍との間で発生したノモンハン事件の機甲戦における戦訓などから、翌1940年(ノモンハン事変発生とほぼ同時期という説もある)、陸軍技術本部を訪れた陸軍省岩畔豪雄大佐が、正規の手続きを踏まずに巨大戦車開発の極秘命令を下した。これは岩畔大佐独断の私物命令だったとも言われている。九五式重戦車の寸法を2倍に延ばして作ることを要求したとされる。
技本第5部車両課長村田大佐の下で計画は極秘に進行し、1940年に実車が完成した。本車は超重量での走行実験のために試作された物で、走行不能の場合は本土防衛のため地中に埋め砲塔だけ出した要塞として使用する計画があった。試作車はかなりの大きさになり、車内は人が楽に立って歩けるほど広く、また操縦室(前部)・戦闘室(中部)・機関室(後部)の3つに分かれ、16mmの鋼板の隔壁で仕切られていた。11人予定の乗員は梯子を使って搭乗する。
主砲は105mm加農1門、副砲に75mm砲1門、7.7mm機関銃九七式車載重機関銃)1挺、主砲弾弾は百発以上を装備する予定であった。砲塔リングギアは直径2,000mmであった。
装甲外板は軟鋼が使われ、前面厚は75mm、さらに増加装甲として75mm鋼板を貼れるようになっていた。側面厚は35mmであったが、最外側にさらに35mmの垂下板が付けられており、実質的には70mmの板厚効果があった。
クラッチは機械式多板クラッチの一般的構造で、高低速つき五段変速機はギア選択摺動式のため変速は重く、レバーは操縦手の前中央で両手で操作するようになっていた。操向変速機には遊星歯車式が採用された、これらの動力装置が、エンジンと共に車体後部に取り付けられ後輪駆動方式が採用された。
試作車の試験走行は相模陸軍造兵廠のテストコース(一部は戦車道路)で行われ、原乙未生少将もこの試験走行に立ち会った。しかし廠内試走路は山林や畑を整地しただけの場所で、直進しただけで無限軌道が自重で沈み走行ができなかった。さらに不整地試験では、100t戦車は旋回するだけで車体が沈み腹部が地面につっかえて断続的な旋回しかできなくなり、走行中に下部転輪が次々と脱落した。またコンクリート舗装路走行では無限軌道が道路脇からはみ出てコンクリートが割れて沈下し、走行した跡はことごとく破壊されていた。
結局実戦投入は困難とされて廠内倉庫にシートをかけられて放置されていたが、1944年(昭和19年)にバーナーで寸断解体され、設計図も焼却処分された。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 O-I 」があります。




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