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ミハイル・バクーニン : ミニ英和和英辞書
ミハイル・バクーニン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ミハイル・バクーニン : ウィキペディア日本語版
ミハイル・バクーニン[ちょうおん]

ミハイル・アレクサンドロヴィチ・バクーニン(、、1814年5月30日 - 1876年7月1日)はロシア思想家哲学者無政府主義者革命家。元正教徒無神論者
== 経歴 ==
ロシア帝国の貴族の家に生まれ、少年期から青年期にはロシア軍に仕官したが1835年に退官。その後モスクワ哲学を学び、急進派のサークルと交流を持つ。特にゲルツェンからは多大な影響を受けた。1842年にはロシアを発ってドレスデンへ赴き、のちにパリジョルジュ・サンドピエール・ジョセフ・プルードン、そしてマルクスと出会っている。
ロシアのポーランド弾圧に反対し、ついにはフランスを国外追放された。1848年革命ではチェック人の蜂起に加わったため、ドレスデンで逮捕された。ロシアへ移送され、サンクトペテルブルクペトロパブロフスク要塞に収容された。1857年まで獄中生活を送った後にシベリア流刑となった。
1861年に脱走。日本アメリカを経由してロンドンへ逃れ、ゲルツェンとともに急進派の言論誌『カラコル』(ロシア語で「鐘」の意味)の刊行に一時携わった。1863年にはポーランドの一月蜂起に参加するため出発するが、現地へは到達できずスイスイタリアにしばらく留まった。犯罪者の立場ではあったが、ロシアやヨーロッパ全土で急進派の若者に大きな影響を与えていった。1870年には、パリ・コミューン誕生の先駆けとなるリヨンの暴動に加わっている。
1868年には、急進派と労働者組織の連合であり、ヨーロッパ各地に支部を持つ国際組織第一インターナショナルに加入。のち、自身の支持者とともにジュラ連合を形成した。1872年の大会は、議会選挙への参加を主張するマルクス一派と、それに反対するバクーニンらの衝突に終始した。バクーニン派は議決で敗れ、同大会の終わりには、インター内部で秘密裏に組織活動を行ったとして、バクーニンと支持者の一部が除名された。彼をはじめとするアナキストたちは、大会が公正に運営されていないとして同年スイスのサン・ティミエで独自にインターの会議を開催している。バクーニンはこの他のヨーロッパの社会主義運動においても精力的に活動した。『国家制度とアナーキー』『神と国家』など、後世に多大な影響を与えた著書の多くは1870年から1876年の間に書かれたものである。体の不調を押してボローニャ蜂起に参加しようとしたが、ついには馬車の積荷に紛れてスイスに戻る羽目になり、その後ルガーノに暮らした。ヨーロッパの急進派として活動を続けたが、健康状態が悪化してベルンの病院へ運ばれ、同地で1876年に死去した。
バクーニンはアナキズムの歴史を語る上で重要な人物である。またマルクス主義、とりわけマルクスの主張したプロレタリア独裁に反対したことでも知られている。ノーム・チョムスキーなど、現代のアナキストにも影響を与えている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ミハイル・バクーニン」の詳細全文を読む




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