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ミヒャエル・ゾーヴァ(Michael Sowa、1945年7月1日 - )は、ドイツの画家・イラストレーター。動物などをユーモラスに描いた緻密な画風で知られ、タブローのほか広告、挿絵、映画や舞台のアートワークなども手がける。 == 来歴 == ベルリン生まれ。幼い頃から絵が好きで、鉛筆でよくドローイングをしていた。家族にはアーティストはおらず、絵が好きになったのは特に誰の影響でもなかったという。高校時代には夜間の市民講座にも通い、ベルリン芸術大学の美術教育学科に進む。教育学科を選んだのは、絵描きは食えないだろうという両親を説得するためだった。卒業後、非常勤の美術講師となるが半年ほどで辞め、以後フリーの画家として活動。当初は生活が苦しく、郵便局でのアルバイトなども経験。タブロー画だけでは食べていけないため広告やポスター、雑誌の仕事なども手がける。タブロー以外の仕事では一時期オーバインの変名も使用した。〔『ミヒャエル・ゾーヴァの仕事』 2頁・41頁。〕 これらの初期の活動からゾーヴァと組んで仕事をしていたのが、学生時代からの友人ミヒャエル・エッターだった。はじめ広告代理店に勤めていたエッターはゾーヴァに広告や緑の党の政党キャンペーン用のポスターの仕事などを紹介し、後にゾーヴァの絵を使用したポストカードを制作・販売する会社インコグニートをゾーヴァとともに設立、少しずつ販路を広げ、やがて世界中にゾーヴァの絵がポストカードの形で普及するようになる。〔『ミヒャエル・ゾーヴァの世界』 38-41頁。〕〔『ミヒャエル・ゾーヴァの仕事』 3頁・30頁。〕 ゾーヴァの経歴に転機が訪れたのは、1992年、ハノーファーのヴィルヘルム・ブッシュ美術館でグループ展「二つの世紀」に参加したことによってであった。この企画展は大きな成功を収め、『デア・シュピーゲル』誌でゾーヴァの『ケーラーの豚』などの作品が大きく取り上げられるなど各地の新聞・雑誌で紹介され、問い合わせと注文が急増した。この後、ゾーヴァの作品を知ったエンツェンスベルガーの希望で、彼とイレーネ・ディーシェの共作による児童向けの作品『エスターハージー王子の冒険』(1993年)の仕事が舞い込んだ。これはゾーヴァの初めての本の挿絵の仕事で、翌年にはアクセル・ハッケの『ちいさなちいさな王様』に挿絵をつけ、以後ハッケやほかの作家と組んで多数の挿絵本を手がけている。〔『ミヒャエル・ゾーヴァの世界』 14頁・62頁。〕 1995年、現代を的確に風刺した画家に与えられるオルフ・グルブランソン賞を受賞。1998年、フランクフルトのオペラ座で『魔笛』の舞台美術を担当、同オペラは100回を超えるロングランとなり、2000年にはゾーヴァ自身による絵本版も作られている。2001年、ジャン・ピエール・ジュネ監督の映画『アメリ』で、劇中に使われる絵とランプを制作、これによってさらに知名度が高まった。映画の仕事ではほかに長編アニメーション『ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ !』(2005年)でイメージボードの制作を行っている。 日本での初の個展は2002年に安曇野絵本館での原画展。〔安曇野絵本館HP 企画展の歴史。〕 また2005年~6年にかけて日本で初の講演会と巡回展が開催された。〔『ミヒャエル・ゾーヴァの仕事』 44-54頁。〕〔ミヒャエル・ゾーヴァ プロフィール ''ほぼ日刊イトイ新聞''。2013年9月2日閲覧。〕〔ベルリン青熊ラジオ ''ベルリン青熊ラジオ 那須田淳のblog''〕〔 ''百町森HP ミヒャエル・ゾーヴァの世界''〕。さらに2009年にも、東京、京都、横浜で巡回展が開催され、来日した。〔 ''ほぼ日刊イトイ新聞''。〕 2012年に自身はじめて文章も手掛けた絵本Stinkheim am Arschberg(邦題は『ひみつのプクプクハイム村』2013年) を刊行し、13年には国の内外の絵本作家による展覧会「手から手へ展-絵本作家から子どもたちへ 3・11後のメッセージ」に出展し、東京新聞主催のフォーラム「絵本のチカラ-3・11後の私たちの生き方」に参加した。〔 ''東京新聞''。2013年11月19日。〕。2013年にはドイツのゲッチンゲン市で優れた風刺文化に与えられるヘラジカ賞を受賞した。。〔 ''ヘラジカ賞''。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ミヒャエル・ゾーヴァ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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