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ミフリン砦包囲戦 : ミニ英和和英辞書
ミフリン砦包囲戦[みふりんとりでほういせん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [とりで]
 (n) fortress
包囲 : [ほうい]
  1. (n,vs) siege 2. encirclement 3. envelopment 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 

ミフリン砦包囲戦 : ウィキペディア日本語版
ミフリン砦包囲戦[みふりんとりでほういせん]

ミフリン砦包囲戦(ミフリンとりでほういせん、)は、アメリカ独立戦争1777年9月26日から11月16日に、デラウェア川沿いのアメリカ軍ミフリン砦をイギリス軍が海陸協働で囲んだ包囲戦である。イギリス軍の陸上砲台はジョン・モントレサー大尉が指揮し、イギリス海軍の戦隊は海軍中将リチャード・ハウが指揮した。アメリカ側はサミュエル・スミス中佐が指揮していた。包囲中にスミスが負傷し、指揮を継いだシメオン・セイヤー少佐が11月15日に夜に砦の守備隊を脱出させ、翌朝イギリス軍が砦を占領することで、最終的にはイギリス軍の勝利となった。当時ミフリン砦は川中の島にあったが、デラウェア川が流れを変えたために、現在ではその北岸、フィラデルフィア国際空港の近くにある。

1777年9月26日、イギリス軍北アメリカ総司令官ウィリアム・ハウ将軍の軍隊とドイツ人傭兵部隊がフィラデルフィア市を占領した後、物資の補給が重要な問題になった。デラウェア川の川中に浮かぶマッド島のミフリン砦と、ニュージャージー州レッドバンクにあるマーサー砦が障害となり、またアメリカ海軍代将ジョン・ヘイゼルウッドが指揮する小さな船隊もいて、イギリス海軍がフィラデルフィア市に物資を運び入れることを妨げていた。フィラデルフィア市が事実上アメリカ軍に封鎖されている事態で、ウィリアム・ハウとリチャード・ハウの兄弟は川の障害を取り除くためにミフリン砦に対する包囲戦を布いた。10月22日のレッドバンクの戦いでは、ドイツ人傭兵部隊が砦を強襲したが、大きな損失を出して失敗した。マッド島近くでイギリス海軍の艦船2隻が座礁し、翌日には破壊された。

アメリカ軍ジョージ・ワシントン将軍は、この包囲戦の間にミフリン砦を補強したが、守備兵の数が500名を超えることは無かった。イギリス軍は何度か挫折した後に、ミフリン砦に向けた砲台を確保し、艦船を集めることで、11月10日には砦への激しい砲撃を始めた。セイヤーはイギリス軍への反撃ができなくなったと判断し、残っていた兵士に夜陰に紛れて川を渡り、ニュージャージーに行くことを命じた。戦旗は翻したままにしていた。その後間もなくマーサー砦も放棄され、イギリス軍にとってデラウェア川が開放され、フィラデルフィア市占領は1778年6月まで続いた。
== 背景 ==

1777年9月11日、ブランディワインの戦いでイギリス軍がアメリカ軍を破った後、ワシントン軍がペンシルベニア州チェスターへ後退するのをハウは追撃できなかった。アメリカ軍はデラウェア川沿いにあるその町から北東に行軍し、ダービーを抜けてミドルフェリーでスクーカル川を渡った。この渡し場からは北に動き、現在のイーストフォールズに行って、宿営を張った〔McGuire, 273〕。その後の10日間で、イギリス軍はパオリの戦いなど小戦闘で勝利するも、両軍は小競り合いを続けた。9月22日夜、ハウはワシントン軍を出し抜き、バレーフォージ近くで無抵抗のままスクーカル川を渡った〔McGuire, 320-322〕。9月26日、イギリス軍はアメリカ反乱軍の首都フィラデルフィア市を占領した。イギリス軍の進軍に直面した第二次大陸会議は、まずランカスター市に逃亡し、続いてヨーク市に移動した〔Dupuy & Dupuy, 715〕。
この年の夏、フランス軍砲兵隊の専門家フィリップ・シャルル・トロンソン・デュ・クードレイがフランスから北アメリカに到着していた。大陸会議がクードレイを少将と兵站部総監に任命し、ワシントンはフィラデルフィア市の川の防衛を強化する任務を与えた。しかし間もなくクードレイの貴族的な雰囲気を快く思わない人が増えた。クードレイは別のフランス人工兵技師ルイ・レベグ・デュポーテイルと、如何に防御を固めるかについて喧嘩を始め、ラファイエット侯爵をすら怒らせることがあった。9月16日、クードレイが馬でスクーカル川に乗り入れたときに、馬が川に飛び込んだために溺れた〔McGuire, 282〕。これに安堵する者も多かった。

マッド島の砦は1771年にイギリス軍工兵大尉ジョン・モントレサーが設計し、建設を始めていた。川面は石壁で囲われたが、資金不足のために工事は中断していた。イギリスとの戦争が始まった後、フランス人士官の間に内紛があったものの、砦の防備は木柵と土盛り塁壁を加えて完成していた。砦の西側と北側には兵士のための木製宿舎ができた。士官のためにはその近くに二階建ての建物が造られた〔McGuire, 182〕。守備隊に入った兵士の証言に拠れば、マッド島南東端には18ポンド砲の砲台が造られた。南西端には32ポンド砲1門、12ポンド砲と18ポンド砲計4、5門で川を固めていた。島の北西端には12ポンド砲3門が据えられた〔McGuire, 183〕。別の証言では、18ポンド砲10文が主砲台に据えられ、4つのブロックハウスのそれぞれに4門の大砲が置かれた〔Boatner, 384〕。先を尖らせた木材が砦を囲み、川岸に沿った地面には落とし穴が掘られた。川中に張り巡らされた逆茂木でイギリス海軍の艦船がデラウェア川を遡行することを妨げていた。木材の頂部は鉄製の部品で覆われており、船の船長が向こう見ずに進んできたときは船底を破る恐れがあった〔McGuire, 183〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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