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ミムズ砦虐殺 : ミニ英和和英辞書
ミムズ砦虐殺[みむずとりでぎゃくさつ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [とりで]
 (n) fortress
虐殺 : [ぎゃくさつ]
  1. (n,vs) atrocity 2. massive killing 
: [さつ]
 【名詞】 1. kill 2. murder 3. butcher 4. slice off 5. split 6. diminish 7. reduce 8. spoil 

ミムズ砦虐殺 : ウィキペディア日本語版
ミムズ砦虐殺[みむずとりでぎゃくさつ]

ミムズ砦虐殺(ミムズとりでぎゃくさつ、)は、クリーク戦争中の1813年8月30日に、現在のアラバマ州モービルの北約35マイル (56 km) で起こった戦闘である。クリーク族インディアンのレッド・スティック派が、戦士隊長ウィリアム・ウェザーフォード(別名ラモチャッティ、赤い鷲)とピーター・マックィーンの指揮で、ミムズ砦を急襲し、守備の民兵隊を破った。敗北が明らかになった後に虐殺が続き、砦に残っていたローワー・クリーク族、白人開拓者、民兵のほぼ全員が殺された。この砦は開拓者サミュエル・ミムズの家と離れ家を囲む小要塞のある防御柵でできていた。
== 背景 ==
米英戦争の期間、クリーク族インディアンは派閥に分裂した。1つの派であるレッド・スティックスは白人開拓者と順応することを拒否し、その他のクリーク族は白人の生活様式を採用することを好んだ。クリーク族の中でもアッパー・タウンに住むレッド・スティックスは、白人開拓者への土地の割譲にも、ローワー・タウンがヨーロッパ・アメリカ文明に同化することも反対した。この民族主義者達は、クリーク族の宣戦布告を象徴する武器である「戦争の赤い棒」を掲げたので、間もなくレッド・スティックスと呼ばれるようになった。クリーク族の中の内戦状態は1813年夏に始まり〔Heidler, p. 354.〕、レッド・スティックスはアッパー・タウンの同化主義者の首長達を攻撃し、家畜を体系的に殺し始めた。家畜の多くはヨーロッパ文明を取り入れることで力を手に入れていた者達に属するものだった。フロンティアの白人はクリーク族の内紛を理解できないまま、緊張の高まりについて警告を出し、ミムズ砦など様々な基地と小要塞の中に入って要塞化を始めた。一方、フロンティアに向かって援軍が派遣された〔。
アメリカのスパイが、レッド・スティックスのピーター・マックィーンの部隊がフロリダペンサコーラに行って、スペインから食料、物資、武器の支援を得たことを知った〔Waselkov, pp.99 -100.〕。クリーク族は、到着したばかりのスペイン総督ゴンザレス・マンリケから、トウモロコシと小麦粉45樽、毛布、リボン、鋏、カミソリ、幾らかの強制雄牛と1,000ポンドの弾薬、およびそれに相当するマスケット銃用鉛弾と散弾を受け取ったが、アルコールに付いては受け取りも飲みもしなかった〔Waselkov, p. 100.〕。クリーク族の輜重隊に関する報告がコーラー大佐に届いたとき、彼とミシシッピ志願兵隊のダニエル・ビーズリー少佐は、白人民兵ライフル銃兵150名の6個中隊とディクソン・ベイリー大尉のテンソー・メティス30名の騎馬部隊を率い、それら戦士隊の妨害に向かった。1813年7月21日〔David Heidler and Jeanne T. Heidler, eds. ''Encyclopedia of the War of 1812'' (2004) p. 106.〕、バーントコーンの戦いで、彼らは昼食を摂っていた〔Waselkov. p. 115.〕レッド・スティックスを急襲した。アメリカ軍はレッド・スティックスの輜重隊を一旦は潰走させたが、戦士たちが戻って来てアメリカ軍を撃退した。この時点からアメリカ軍はクリーク族の内戦に巻き込まれることになった。1813年8月、ピーター・マックィーンとレッド・イーグル(ウィリアム・ウェザーフォード)がミムズ砦の攻撃を率いたレッド・スティックスの指導者だった。レッド・スティックスのクリーク族戦士は、アラバマ、タラプーサス、アラバマ川下流のフラット・クリーク河口にあるローワーアベカスのクリーク族13町から1,000人近い戦士を集めた〔Waselkov, pp. 110-111.〕。
ローワータウンの中でも、テンソーのメティスと呼ばれた混血のクリーク族は、ミムズ砦を避難地としてヨーロッパ系アメリカ人開拓者に合流した。この集団は奴隷も連れてきていた。砦にいた武装民兵265名を含め〔、総勢では517名になった〔〔Halber, Ball, p. 148, give 553.〕。ミムズ砦はアラバマ川の東岸、モービル市からは35ないし45マイル (50–70 km) 北にあった〔"Fort Mims" , Alabama Historical Commission.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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