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ミリュコフ ( リダイレクト:パーヴェル・ミリュコーフ ) : ウィキペディア日本語版 | パーヴェル・ミリュコーフ
パーヴェル・ニコラエヴィッチ・ミリュコーフ(ミリュコフ;ロシア語:;ラテン文字表記の例: Pavel Nikolayevich Milyukov、1859年1月15日 - 1943年3月31日)は、帝政ロシアの歴史学者、政治家。 帝政末期の自由主義政党・立憲民主党(カデット)の領袖の一人。リヴォフ公を首班とする臨時政府で外務大臣を務めた。 == 歴史学者として == 建築家の家に生まれ、モスクワ大学を卒業する。大学在学中は、コンスタンチン・カヴェーリン(w:Konstantin Kavelin)とボリス・チチェーリン(w:Boris Chicherin)の自由主義思想に強く影響を受けた。1886年モスクワ大学で教鞭をとり、ロシア史を教えた。歴史学者としては、チチェーリンらによる「国家学派」(19世紀ロシア歴史学の中心となった学派)を継承しつつも、これにオーギュスト・コント、ハーバート・スペンサーの社会学理論を取り入れ、独自の文化的歴史考証を行った。1896年から1903年にかけて、『ロシア文化史概論』''Outlines of Russian Culture'' (全3巻)を出版している。この間、ツァーリズムに対する批判を強め、当局から圧迫を受け、1895年モスクワ大学における教職を解雇された。『ロシア文化史概論』第3巻は投獄中に脱稿している。ミリュコーフの留置は1901年の半年であったが、その間、自由時間を政治的草稿の記述に費やしている。モスクワ大学を追われた後、ミリュコーフは10年間をロシア国外で過ごした。ミリュコーフはアメリカに渡りシカゴ大学教授を務めた。1902年ピョートル・ストルーヴェの自由主義的政治誌『解放』''Osvobozhdenie''に匿名で寄稿した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「パーヴェル・ミリュコーフ」の詳細全文を読む
英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Pavel Milyukov 」があります。
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