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ミルチャ1世(、 ''Mircho Stari''、、、? - 1418年1月31日)は、ワラキアの公(在位:1386年 - 1418年)。孫であるワラキア公ミルチャ2世と区別するため、老公の渾名で呼ばれる。 ワラキアと敵対したオスマン帝国の人間〔ジュレスク『ルーマニア史』、73頁〕やドイツの歴史家ロウンクラヴィウス〔オツェテァ『ルーマニア史』1巻、200-201頁〕は、ミルチャを「キリスト教徒の公の中で最も勇敢であり、聡明な人物」と評した。19世紀以降、ルーマニアの歴史家は彼を指して「偉大なるミルチャ()」と呼んだ〔Hasdeu, p. 130; Xenopol, p, 89; Iorga, p. III〕。 == 生涯 == ミルチャ1世は、の血統に連なるワラキア公の子として生まれる〔Giurescu, 362頁〕。 オスマン帝国の拡大に際して、オスマンを共通の敵とするハンガリー王ジギスムントと密接な関係を構築する〔Giurescu, 366頁〕。また、隣国のモルダヴィア公国と友好関係を保ち、の即位を支援した〔。1389年、モルダヴィア公を介してポーランド王ヴワディスワフ2世と同盟を結ぶ〔。同年10月のコソボの戦いの戦いにおいては、ワラキアはセルビア陣営に参戦した。 1390年からミルチャはオスマン帝国の支配下に置かれているドブロジャを奪還するため、遠征を実施する〔ジョルジュ・カステラン『ルーマニア史』(萩原直訳, 文庫クセジュ, 白水社, 1993年10月)、15-16頁〕。1394年にオスマン皇帝バヤズィト1世が40,000の大軍を率いてダニューブ川を渡った時、ミルチャは10,000の兵士しか集められず、緒戦で敗北した。ミルチャはオスマン軍に対してゲリラ戦を展開し、小規模の攻撃と撤退を繰り返した。ワラキア軍はでオスマン軍に勝利を収め、オスマン軍はダニューブ川南岸まで後退した〔尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』(東海大学出版会, 1999年2月)、855-856,859頁〕。 1396年7月にジギスムントが提唱した反オスマン十字軍にミルチャも参加するが、同年9月25日のニコポリスの戦いで十字軍は瓦解する。ニコポリスの戦いの後、ミルチャはドブロジャをオスマン帝国に譲渡し、貢納を誓約した翌1397年にミルチャはハンガリーの支援を受けてを破り、ダニューブ川を渡ったオスマン軍の前進を阻止する。1400年、ワラキア軍は再びオスマン軍に対して勝利を収める〔Giurescu, 368頁〕。 1402年のアンカラの戦いにおいてバヤズィト1世がティムールに敗れ、オスマン帝国が分裂状態に陥ると、ミルチャは周辺のキリスト教国と連合して反オスマン運動を展開する。ジギスムント、セルビアのらと連合し、1404年にブルガリアで発生した反オスマン蜂起を支援し、ドブロジャを回復した〔。オスマン帝位を主張するバヤズィト1世の4人の遺児のうち、ミルチャは当初ムーサを支持したが〔、支持者を次々に変えてオスマン帝国に占領された土地の奪還を進める〔。1415年、メフメト1世の下で統一を回復したオスマン帝国に対して、ミルチャは領土の保持と信仰の自由を条件に臣従を誓約した〔矢田俊隆編『東欧史』(世界各国史, 山川出版社, 1977年6月)、94-95頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ミルチャ1世」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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