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ミレ・ツルノ : ウィキペディア日本語版
ミレ・ツルノ

ミレ・ツルノMile Zrno1955年9月29日 - )は、旧ユーゴスラビアクロアチア出身の元プロレスラー
現役選手時代はドイツを主戦場に活動。甘いマスクと肉体美を持つ技巧派ベビーフェイスとして、女性の観客からの声援を集めた〔『Gスピリッツ Vol.23』 P72-73(2012年、辰巳出版、ISBN 4777810054)〕。
== 来歴 ==
スイス出身のレネ・ラサルテスベルギー出身のチャールズ・フェルフルスト(ジョニー・ロンドス)らのコーチを受け、1973年に18歳でデビュー〔。1978年11月、ドイツローラン・ボックが日本からアントニオ猪木を招聘してプロモートした欧州世界選手権シリーズに、アンダーカード要員として出場。猪木に同行しヨーロッパに遠征していた藤原喜明との連戦が各地で行われた。
1979年5月、ボックをヘビー級王者に認定していたWWU(ワールド・レスリング・ユニオン)のジュニアヘビー級王者として国際プロレスに初来日。5月6日に後楽園ホールにて阿修羅・原の挑戦を受けるも敗退し、王座を明け渡している。
欧州では1980年代よりオットー・ワンツ主宰のCWA(キャッチ・レスリング・アソシエーション)を主戦場に活動。1981年に開催された "CWA World Catch Cup" では、ムース・モロウスキーエイドリアン・ストリートパット・ローチゴロー・タナカ、クラウス・カウロフなどのヘビー級のヒールと対戦した〔。
1982年10月には新日本プロレスに初参戦するが、ビザの都合で興行への出場が不可能になり、素顔を隠し覆面レスラーシルバー・ハリケーンに変身しての1試合のみで帰欧〔『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P74(2002年、日本スポーツ出版社)〕。翌1983年3月の来日時は素顔に戻り、3月10日に栃木県体育館にてタイガーマスクNWA世界ジュニアヘビー級王座に挑戦した。1985年2月には第1次UWFに出場、2月18日の後楽園ホール大会ではディーン・ソルコフから勝利を収めている〔。
その後もCWAを活動の拠点に、1986年はブル・パワーこと後のビッグバン・ベイダーとも対戦〔。1987年7月17日にはオーストリアウィーンにてスティーブ・ライトを破り、CWA世界ミドル級王座を獲得。タッグでは1988年6月、トニー・セント・クレアーと組んでマーク・ロコ&デイブ・フィンレイを下し、CWA世界タッグ王座の初代王者チームとなった。
再来日の機会はなかったものの、1989年にヨーロッパ遠征から帰国し第2次UWFに移籍した船木優治が、ドイツでツルノから習得した技としてアンクル・ホールドを初公開。彼の名前が再び日本でクローズアップされることとなった(船木は、ツルノが使っていた技はイギリスビリー・ライレー・ジムの流れを汲むものと語っている)〔。
1990年代もCWAでの活動を続け、1990年から1993年にかけては、ランボークリス・ベノワオーエン・ハートランス・ストームなどのカナダ勢や、野上彰飯塚孝之山本広吉といった当時の新日本プロレスの若手選手とも対戦。1998年1月17日には、ドイツのハノーバーで行われたIWW(インディペンデント・レスリング・ワールド)のワンナイト・トーナメントに出場、決勝の4ウェイ・マッチ西村修に敗れた。
キャリア晩年はベルリンのVDBなどの団体に単発出場し〔、2005年に現役を引退してクロアチアに帰国したとされる〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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