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ミ船団(ミせんだん) またはミ号船団(ミごうせんだん)とは、日本が太平洋戦争後期に日本本土とボルネオ島ミリとの間で運航した一連の護送船団である。中小型のタンカーを主力に日本本土への石油輸送を主任務とした。戦況の悪化により航路やミリの危険が増えたため、開設から半年余りの1944年11月末に廃止された。 == 沿革 == 開戦初期の南方作戦でオランダ領東インドなど東南アジア各地の産油地帯を占領した日本軍は、1942年(昭和17年)中に設備を復旧すると、日本本土への資源輸送(当時の用語で「還送」〔大井(2001年)、240頁。〕)を開始した。産油地のうち日本軍が当初に重点を置いたのは品質の高いスマトラ島パレンバン油田とボルネオ島東岸のバリクパパン油田で、1943年(昭和18年)7月にはパレンバン産油輸送のため門司=シンガポール(当時の日本側呼称は昭南、パレンバン産油の集積地)間でヒ船団と称する特別の護送船団が運航開始されている〔岩重(2002年)〕。他方、ボルネオ島西岸のミリ油田は日本と距離的に近いという利点があったものの、遠浅の地形かつ港湾設備も不十分で大型タンカーの運用に不向きであったことから、あまり活用されていなかった〔岩重(2011年)、86-87頁。〕。 1944年(昭和19年)4月になって日本海軍は従来の方針を変え、ミリ産油輸送のための特別船団としてミ船団の開設を決めた。この時期、日本の海上護衛総司令部は、1943年後半からアメリカ海軍潜水艦による通商破壊が威力を増してきたのに対抗するため、護送船団を集約・大規模化して防御力を高める大船団主義の採用に踏み切っていた。特に石油タンカーの護衛が最重要視された。海上護衛総司令部は、ヒ船団を船団速力9ノット以上で航行可能な比較的優秀なタンカーで構成し、基準に満たない低性能タンカーをミ船団で引き受けさせることにした〔防衛庁防衛研修所(1971年)、352頁。〕。ミリが目的地に選ばれた理由は、バリクパパン産油の輸送航路だったボルネオ東岸航路で潜水艦被害が増加してバリクパパン油田の利用が難しくなってきたこと、日本からの距離が短く運航効率向上が期待されたことが挙げられる〔。 ミ船団の基本航路はミリと門司を結ぶもので、マニラと高雄港に経由地として寄港した。最初のミ船団であるミ02船団は、1944年4月22日にマニラで輸送船8隻・護衛艦2隻によって編成され、4月28日にミリへ到着。折り返し5月4日に輸送船16隻・護衛艦3隻の編制でミリを出航し、途中でタンカー代用の捕鯨母船日新丸(大洋漁業:16764総トン)を失いつつも、5月23日に門司へ到着した〔。 当初は順調だったミ船団の運航であるが、1944年7月12日に門司を出港したミ11船団(出航時:輸送船22隻・護衛艦5隻)はルソン海峡でアメリカ潜水艦群(ウルフパック)の集中攻撃を浴び、輸送船3隻沈没・2隻損傷の大損害を受けてしまった〔岩重(2011年)、88-89頁。〕。以降、フィリピンの戦いに向けてアメリカ潜水艦の行動が活発化したためミ船団の被害も次第に増加し、ミ19船団は輸送船3隻沈没・3隻損傷の大損害、ミ12船団(輸送船12隻・護衛艦6隻。輸送船5隻沈没)のように途中で打ち切りになる例も発生した。 1944年10月18日に佐世保港を出たミ23船団以降は、アメリカ軍のフィリピン侵攻(10月17日に上陸)を考慮し、マニラではなくサンジャック(聖雀、現在のブンタウ)を経由する航路に変更された〔岩重(2011年)、94-95頁。〕。しかし、ミ27船団(輸送船10隻・護衛艦5隻)は東シナ海上で米潜水艦の襲撃を受け、輸送船4隻を失って高雄で打ち切られた〔。積み出し港のミリも、モロタイ島から飛来するB-24爆撃機の攻撃圏内に収まっており、ミ25船団でミリへ到着した改造タンカー愛宕丸(日本郵船:7542総トン)は2日後に空襲で撃沈されてしまった。 1944年11月、海上護衛総司令部は護衛兵力の集約のためサンジャック=ミリ航路の放棄を決定し〔、ミ船団は廃止された。11月30日にそれぞれミリと門司を出港したミ26船団とミ29船団は、いずれも途中で打ち切られた。ミ船団用の低性能タンカーの生き残りは大型タンカーが枯渇したヒ船団へ組み込まれた〔。翌1945年(昭和20年)1月のヒ86船団はミ船団相当の低性能タンカー多数を含んでいた〔。また、ミ船団廃止後もミリ産油をヒ船団発航地のシンガポールへ集積する航路が運航されていたが、ミリがモロタイ島からの敵機に常時空襲されるようになったため、1945年1月に閉鎖された〔。ミリ産油は搬出不能となり、日本軍は1945年4月に油田設備を自ら破壊した。なお、同年5月にイギリス連邦軍がボルネオ島へ侵攻してボルネオの戦いが起きた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ミ船団」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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