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ムイズッディーン・バフラーム・シャー(Muiz ud din Bahram Shah, 1205年以降- 1242年5月15日)は、北インドのデリー・スルターン朝、奴隷王朝の第6代君主(在位:1240年 - 1266年)。第3代君主であるシャムスッディーン・イルトゥトゥミシュの息子にあたる。 ==生涯== 1240年、姉のラズィーヤが遠征中に反乱でとらえられたことにより、弟であるバフラーム・シャーがデリーでトルコ系貴族ら擁立された〔ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、p.116〕。その後、デリーに進軍してきた姉の軍勢を破り、バフラーム・シャーの地位は確固としたものとなった〔ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、p.116〕。 だが、バフラーム・シャーはトルコ系遺族がラズィーヤに対抗するために擁立されたにすぎず、その実権はチェハルガーニーの一人で摂政マリク・イフティヤールッディーン・アイトゥキーンに握られていた〔荒『インドの「奴隷王朝」 中世イスラム王権の成立』、p.56〕。アイトゥキーンはバフラーム・シャーの妹と結婚したばかりか〔荒『インドの「奴隷王朝」 中世イスラム王権の成立』、p.56〕、象を保有し、自邸の前で日に3日音楽を演奏させるなど、あたかも事実上の王であるかのように振る舞った〔ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、p.117〕。 バフラーム・シャーはアイトゥキーンの横暴に耐え切れなくなり、その暗殺を計画して実行した。だが、別の有力者バドルッディーン・スンカルが権力を握り、彼の打倒を計画した〔ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、p.117〕。のち、スンカルの計画は露見するところとなり、バフラーム・シャーは彼と賛同者数人を殺害した。 そうしたなか、1241年冬にオゴデイ・ハーンの派遣したモンゴル軍が北インドに侵攻し、多数の人々が虐殺されるところとなった〔ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、p.117〕。バフラーム・シャーはこれに応戦するため、チェハルガーニーらにトルコ系貴族にデリーから出陣させたが、彼らは自分たちを死なせているのだと思い込み、デリーへと帰還した〔ロビンソン『ムガル帝国歴代誌』、p.117〕。こうして、デリーはトルコ系貴族に3か月にわたり包囲されたのち、1242年5月に攻略されてしまい、バフラーム・シャーは投獄され、同月15日に殺害された。 バフラーム・シャーが投獄された際、マリク・イズッディーン・バルバンという人物が王位を宣しているが、これはチェハルガーニーには認められず、彼の一人芝居に終わった〔荒『インドの「奴隷王朝」 中世イスラム王権の成立』、p.56〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ムイズッディーン・バフラーム・シャー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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