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ムイーヌッディーン・ウヌル・アル=アターベキー(Mu'īn al-Din Unur al-Atābekī 生年不詳 - 1149年8月28日)はブーリー朝のトルコ系アミール、アタベクで、アイユーブ朝のサラーフッディーン及びザンギー朝のヌールッディーンの義理の父。第二回十字軍を撃退したことで知られる武将である。幼年のブーリー朝の君主に代わり、事実上ダマスカスを支配し〔、第二回十字軍の他、ザンギー朝のイマードゥッディーン・ザンギーの攻撃もよく退け、ダマスカスの独立を守った。 ==生涯== ===ムイーヌッディーン・ウヌルの登場=== もともとはブーリー朝の始祖トゥグテキンのマムルークであった〔Ibn al-Athir(2) p. 21〕。トゥクテギン死後も引き続きブーリー朝に仕えていたようである。 1135年、ブーリー朝の君主イスマーイールが自身の暗殺計画を知って疑心暗鬼になり、ザンギーに町を引き渡そうとした〔Ibn al-Qalanisi p. 229〕〔Ibn al-Athir(1) p. 313〕〔マアルーフ pp. 218-9〕。ところが、ダマスカス市民は先年来のザンギーの不誠実さを知っていたのでこれを阻止しようとし、イスマーイールの母親ズムッルド妃に訴えるところとなる。ズムッルドはイスマーイールを殺害し、別の息子マフムードを擁立してザンギーの来訪に備えた〔Ibn al-Qalanisi p. 232〕〔〔マアルーフ p. 222〕。 この報せを無視し、ザンギーはダマスカスを接収しようと街を包囲したが、ダマスカスは守りを固めた〔Ibn al-Athir(1) p.314〕。この時、防戦の指揮を取ったアミールがムイーヌッディーン・ウヌルであった。イブン・アル=アシールは彼の活躍を以下のように伝えている。 「このダマスカスの危機にあって重要な役割を果たしたのがムイーヌッディーン・ウヌルであった。彼の籠城戦と軍事に関する知識と能力は余人を寄せ付けず、後に彼が台頭しこの領邦を掌握する要因ともなる」〔 この戦闘はアッバース朝カリフ、ムスタルシドが仲介に入り、ザンギーは退いていった〔。 1137年、ウヌルはマフムードからアタベク号を受け、総司令官職(イスファサラール)に任じられた〔Ibn al-Qalanisi pp. 247-8〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ムイーヌッディーン・ウヌル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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