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ムザッファル・クトゥズ : ウィキペディア日本語版
ムザッファル・クトゥズ
アル=マリク・アル=ムザッファル・サイフッディーン・クトゥズアラビア語 الملك المظفّر سيف الدين قُطُز al-Malik al-Muẓaffar Sayf al-Dīn Quṭuz, ? - 1260年10月24日)は、エジプトを支配したマムルーク朝君主スルターン、在位:1259年 - 1260年)。クトゥズは1260年アイン・ジャールートの戦いでイスラーム勢力の指揮を執り、モンゴル帝国に対して勝利を収める。カイロへの帰還の途上、クトゥズは部下のバイバルスによって暗殺され、スルターンの地位を奪われた。在位期間の短さにもかかわらず、イスラーム世界から好評を得ているマムルーク朝のスルターンの一人に数えられ、イスラーム史上でも高い地位を獲得している〔Qasim, 24頁〕。
== 生涯 ==

=== 前半生 ===
クトゥズの前半生には不明な点が多く、彼の出自について多くの伝承が残されている〔Qasim, 38頁〕。モンゴル軍に捕らえられて奴隷とされたクトゥズは商人に連れられてシリアに行き、アイユーブ朝のマムルークであるアイバクに買い取られた。いくつかの史料では、クトゥズは自分の本名はMahmud ibn Mamdudであり、ホラズム・シャー朝のスルターン・アラーウッディーン・ムハンマドの子孫を自称していたことを伝える〔Amitai-Preiss, 35頁〕
クトゥズはアイバク配下のマムルークの中で最も有力な人物として頭角をあらわし〔Qasim, 44頁〕、アイバクがマムルーク朝のスルターンに即位した後、1253年にクトゥズはアイバクの副王に相当する地位に就いた。1257年にアイバクが妻のシャジャル・アッ=ドゥッルによって暗殺された後、クトゥズはシャジャル・アッ=ドゥッルを逮捕し、アイバクの遺児マンスール・アリーを新たなスルターンに擁立した〔。1257年11月と1258年4月の2度にわたり、ダマスカスを支配するアイユーブ家の王族アル=ナーセル・ユースフはクトゥズと敵対するバフリー・マムルークの力を借りてエジプトに侵入したが、クトゥズはいずれの攻撃も退けた。
1258年2月、アッバース朝の首都バグダードを陥落させたモンゴル軍は住民を虐殺し、カリフムスタアスィムを処刑した。ナーセルは子のアジーズをモンゴル帝国のフレグの元に派遣して貢納を行ったが、フレグはナーセル自身が出頭しなかったことを詰問し〔ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、292-293頁〕、シリアに向けて軍を進めた。モンゴル帝国の進軍に対して、クトゥズは若年のマンスール・アリーに代えて難局を対処できる人物を新たにスルターンに擁立することを主張し、1259年11月にマンスール・アリーを廃して自らスルターンに即位した〔ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、310-311頁〕。エジプトの諸将はクトゥズがマンスール・アリーを廃して自身がスルターンとなったことに不満を抱き、クトゥズはモンゴル軍の侵入を撃退した後に他の人物にスルターンの地位を譲ることを約束した〔ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、311-312頁〕。ファリスッディーン・アクタイを総司令官に任命して戦争の準備を開始した〔Shayyal, 122頁/vol.2〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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