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ムザッファル朝 : ウィキペディア日本語版
ムザッファル朝[むざっふぁるあさ]

ムザッファル朝( - モザッファリヤン)は、14世紀イランに存在していたアラブ系国家〔ドーソン『モンゴル帝国史』6巻、386頁〕〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、54頁〕。イラン中央部のヤズドからケルマーンシーラーズに至る地域を支配していた〔。
== 歴史 ==
王朝の創始者であるムザッファル家の人間はイスラームの征服の際にホラーサーン地方に移住したアラブ人だったが、モンゴル帝国のホラーサーン征服後にヤズドに移住した〔杉山「ムザッファル朝における支配の正統性」『史林』89巻5号、77頁〕。ヤズド移住後のムザッファル家は現地を統治するアタベク政権に仕えていたが、シャラーフッディーン・ムザッファルはイルハン朝アルグンに臣従し〔、ヤズド近郊のメイボドの代官に任命された〔。
シャラーフッディーンの子であるムバーリズッディーン・ムハンマドは、イルハン朝の宮廷で養育された。ファールス地方を支配するインジュー家のカイ・ホスローとヤズドのアタベク・ハージー・シャーが対立した時、ムバーリズッディーンはカイ・ホスローの要請に応じてハージー・シャーを破る。ヤズドのアタベク政権が消滅した後、1318年〔杉山「ムザッファル朝における支配の正統性」『史林』89巻5号、80頁〕19年〔ドーソン『モンゴル帝国史』6巻、385頁〕にムバーリズッディーンはイルハン朝の君主アブー・サイードからヤズドの長官に任じられる。アブー・サイードの死後にイルハン朝が衰退するとムバーリズッディーンはチョバン朝と同盟し〔杉山「ムザッファル朝における支配の正統性」『史林』89巻5号、72頁〕、1340年にチョバン朝からケルマーンの支配権を与えられる〔。ムバーリズッディーンはヤズド、ケルマーンの支配権を巡ってインジュー朝のシャイフ・アブー・イスハークと戦い、1350年から1352年までの間に3度にわたるインジュー朝の攻撃を撃退した〔『ハーフィズ詩集』、371-372頁〕。ムバーリズッディーンは貨幣からチョバン朝が擁立した傀儡のハン、一時的に宗主権を認めていたインジュー朝の君主の名前を削り、1351年/52年に支配者の名前が入れられていない貨幣を鋳造して自立の意思を表明する〔杉山「ムザッファル朝における支配の正統性」『史林』89巻5号、82頁〕。
1353年にムバーリズッディーンはインジュー朝の統治下に置かれていたシーラーズを征服する。1354年/55年にムバーリズッディーンはエスファハーンの遠征を実施し、進軍中にファールス地方の山岳地帯を支配するシャバーンカーラ国を滅ぼす。エスファハーン遠征の同時期にムバーリズッディーンはカイロアッバース家バイア(忠誠の誓い)を行い、金曜礼拝で読み上げられるフトバと貨幣にカリフの名前を刻み、スルターンを自称した〔杉山「ムザッファル朝における支配の正統性」『史林』89巻5号、90頁〕。ムバーリズッディーンはエスファハーンに逃れたアブー・イスハークを捕殺し、インジュー朝を支配下に組み込んだ。1358年/59年〔岩武昭男「ムバーリズッディーン・ムハンマドの廃位」『人文論究』47巻3号収録(関西学院大学, 1997年)、85-87頁〕にムバーリズッディーンはキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)の支配下にあるアゼルバイジャンに遠征を行うが、ジャライル朝シャイフ・ウヴァイスが領内に進軍している報告を受けて撤退する。遠征の帰還後、ムバーリズッディーンの長子であるシャー・シュジャーはムバーリズッディーンを廃位し、シャー・シュジャーがムザッファル朝の君主の地位に就いた〔ドーソン『モンゴル帝国史』6巻、388頁〕。
即位したシャー・シュジャーはシーラーズを本拠地とし、ケルマーンには兄弟のアルバクフとスルターン・イマードッディーン・アフマドが、エスファハーンにはシャー・マフムードが、ヤズドには甥のシャー・ヤフヤーが割拠していた。シャー・シュジャーは、治世の初期をそれらの親族との抗争に費やさなければならなかった〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、58頁〕。シャー・シュジャーの弟のシャー・マフムードはムバーリズッディーンの廃位に協力したが、シャー・シュジャーの即位後に兄弟の仲は悪化し、シャー・マフムードはジャライル朝と同盟してシャー・シュジャーと戦った〔。1375年にシャー・マフムードが没するとシャー・シュジャーの状況は好転し、シャー・シュジャーはイラン北西部への進出を計画する〔。ムザッファル軍はアゼルバイジャン遠征で勝利を収めたが、シーラーズで反乱が起きたために退却を余儀なくされる〔。また、シャー・シュジャーの長子ザイヌル・アービディーンとジャライル朝の王女との婚姻が予定されていたが、ジャライル朝の攻撃によってスルターニーヤを喪失した〔。シャー・シュジャーは甥のシャー・マンスールに勝利を収めることができないまま、1384年に没する。シャー・シュジャーの治世にムザッファル朝の支配領域は最大に達し〔、在位中に東方で勢力を拡大するティムール朝に忠誠を誓った〔ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』、68頁〕。
シャー・シュジャーは生前にザイヌル・アービディーンを後継者に指名していたが王権は不安定な状態に置かれており〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、60頁〕、シャー・シュジャーの死後にムザッファル朝の領土は王族によって分割された〔ドーソン『モンゴル帝国史』6巻、389頁〕。1387年ティムールへの臣従を拒絶したザイヌル・アービディーンは彼からの攻撃に晒される〔。ティムールの兵士に抵抗したエスファハーンの住民は虐殺され、降伏したシーラーズにはティムールの代官が派遣された〔ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』、68-69頁〕。同年にキプチャク・ハン国のトクタミシュがティムールの本拠地であるマー・ワラー・アンナフルに侵入したため、ティムールはイランから撤退する〔ラフマナリエフ「チムールの帝国」『アイハヌム 2008』、70頁〕。
ティムールの撤退後、シャー・マンスールはエスファハーンとシーラーズを奪回し、シャー・ヤフヤーを廃位した〔。1392年にムザッファル朝は再びティムールの攻撃を受ける。シャー・マンスールが中心となってティムールに抗戦したが敗北し、シャー・マンスールは戦死した。ムザッファル家の17人の王族は投降したが、1393年5月にムザッファル家の王族はティムールによって処刑される〔。ザイヌル・アービディーンと彼の兄弟であるスルターン・シェブリは助命されてサマルカンドに移送され、平穏な余生を送った〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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