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ムスチスラフ・ヤロスラヴィチ(、? - 1226年)はキエフ大公ヤロスラフ2世の年少の子である。ペレソプニツァ公:1180年 - 1120年頃、ガーリチ公:1212年 - 1213年、ルーツク公:1220年頃 - 1226年〔Л.Войтович. 3.15.ВОЛИНСЬКА ГІЛКА МОНОМАХОВИЧІВ. БОЛОХІВСЬКІ КНЯЗІ. КНЯЗІ ОСТРОЗЬКІ ТА ЗАСЛАВСЬКІ // КНЯЗІВСЬКІ ДИНАСТІЇ СХІДНОЇ ЄВРОПИ Львів,2000.〕。通称ネモーイ(話せない者、の意)。 ==生涯== 1183年、キエフ大公スヴャトスラフ(ru)、オーヴルチ公リューリク、ガーリチ公国軍、ペレヤスラヴリ公国軍と共に、ポロヴェツ族への遠征に参加し、勝利した(オレーリ川の戦い(ru))。 1207年、ベルズ公アレクサンドル(ru)と共にウラジーミル・ヴォリンスキーへと赴いた。1211年にはハンガリー王国、ポーランド王国、またその他のヴォルィーニの公たちと共にヴォルィーニ公ダニールを助け、ガーリチ公ウラジーミル、その兄弟のロマンと戦った。 1212年、ガーリチのボヤーレ(貴族)たちがダニールとその義母を追放し、ムスチスラフを公として招いた。ダニールは義母と共にハンガリーへと逃亡した。しかしハンガリー王アンドラーシュ2世がガーリチへ乗り込み、ムスチスラフを放免した。ガーリチ公位にはしばらくの間ボヤーレのヴラディスラフ(ru)が就いてたが、クラクフ公レシェク1世が即刻遠征軍を整えた。この遠征軍にはムスチスラフも参加していた。 1223年、ムスチスラフはダニールと共にカルカ河畔の戦いに参加した。この戦いではムスチスラフの2人の甥(ドロゴブージ公イジャスラフ・シュムスク公スヴャトスラフ兄弟)が戦死している。 ムスチスラフは死の直前に、息子のイヴァンの承認の元に、ダニールにルーツクを遺贈しようとした(なおイヴァンはその後すぐに死亡)。しかし甥のヤロスラフ・ウラジーミル兄弟(イングヴァリの子)らが遺言を破り、ルーツク公位を奪った(ただしその代償として別の分領地を失い、ダニールのものとなった)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ムスチスラフ・ヤロスラヴィチ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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