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ムハンマド・アリー・ハーン : ミニ英和和英辞書
ムハンマド・アリー・ハーン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ムハンマド・アリー・ハーン : ウィキペディア日本語版
ムハンマド・アリー・ハーン[ちょうおん]

ムハンマド・アリー・ハーン・ワッラー・ジャー(Muhammad Ali Khan Wlala Jah, 1717年あるいは1723年7月7日 - 1795年10月13日)は、南インドカルナータカ太守(在位:1749年 - 1795年)。
1749年8月、父であるカルナータカ太守アンワールッディーン・ハーンアンブールで戦死し、父を殺害したチャンダー・サーヒブと対立するかたちで太守となった。1752年にチャンダー・サーヒブを倒したのち、1763年パリ条約で彼の太守位は正式承認された。
だが、イギリスは彼が太守位を得るための代償として、第二次カーナティック戦争および第三次カーナティック戦争における戦費の負担を強いた。その負債額はマイソール戦争などによりさらに悪化の一途をたどり、結果的にナワーブの領土はイギリスの保護国化した。
== 生涯 ==

=== 父の死と第二次カーナティック戦争 ===

1749年8月3日、父であるカルナータカ太守アンワールッディーン・ハーンアンブールで、フランスチャンダー・サーヒブムザッファル・ジャングの連合軍と戦い、戦死するところとなった(アンブールの戦い)〔チャンドラ『近代インドの歴史』、p.59〕。
アンワールッディーン・ハーン殺害後、その息子ムハンマド・アリー・ハーンが新太守となったが、チャンダー・サーヒブも太守位を宣し、2人の太守が両立するかたちとなった。
父の殺害後、ムハンマド・アリー・ハーンはイギリスと結んで、ティルチラーッパッリの城塞に逃げ込み、チャンダー・サーヒブはフランスと結び、第二次カーナティック戦争が勃発した〔。また、彼はイギリスのほかにも、ニザーム王国の君主ナーシル・ジャングマイソール王国タンジャーヴール・マラーター王国とも同盟した〔辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.199〕。
1750年4月5日および1751年1月21日には、ムガル帝国の皇帝アーラムギール2世の勅状により、ムハンマド・アリー・ハーンはアンワールッディーン・ハーンの後継者であり、カルナータカ太守であると認められた〔Arcot 9 〕。
1751年から1752年にかけて、チャンダー・サーヒブはフランスの援助のもと、ムハンマド・アリー・ハーンの篭城するティルチラーパッリ要塞を攻めた(ティルチラーパッリ包囲戦)〔チャンドラ『近代インドの歴史』、p.59-60〕。
だが、チャンダー・サーヒブはこの包囲に兵員の大部分を割き、首都アルコットが手薄となっていたため、1751年12月にアルコットはイギリスのロバート・クライヴに奪われてしまった(アルコットの戦い)〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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