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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ムバーラク・ビン・サバーハ・アッ=サバーハ(, 、1837年 - 1915年11月28日)はクウェートの首長(在位1896年 - 1915年)で、サバーハ家の第7代目当主。クウェートをオスマン帝国の1州の一部からイギリス保護下の国家に押し上げ、大首長の称号を得る。ムバラク1世、ムバラク大王とも。 == 経歴== 兄との不和が理由で、インドのボンベイに移住していたが、1896年初め頃に、インドのボンベイからクウェートに戻る。兄で犬猿の仲であったムハンマドは警戒して宮廷にムバーラクを入らせずに、ムバーラクはクウェート市内で生活をする。当時の市民はムバーラクに同情したという。同年5月、兄に公衆の面前で侮辱されたのを機会に、クーデターを起こしてムハンマドともう一人の兄ジャッラーハを殺害して首長に就任した。 1897年に宗主国であったオスマン帝国はクウェートの突然の簒奪者ムバーラクに対し、宗主権再確認の声明を出し、アル・ハサ地区の軍備を強化の上でバスラの兵力を増強した。1898年にトルコはクウェート侵攻を行おうとしたが、イギリスの抗議で取りやめることになった。そして、インド総督カーゾン卿と1899年1月23日にイギリスとの間の保護条約を結ぶ。 1899年、ドイツがトルコから、バクダート鉄道の敷設権を得る。この鉄道の終点はクウェートであったことから、1900年にイスタンブル駐在のドイツ総領事シュテムリッヒがクウェートを訪問し、鉄道建設計画の同意をムバーラクに求めるが、ムバーラクはこれを拒否した。 これより前の1897年12月、ラシード家中興の祖といわれたムハンマド・イブン・アブドゥッラーが死去し、その甥のアブドゥルアズィーズ・イブン・ムトブイがラシード家の当主となる。これを好機と見て、1901年、当時クウェートに亡命していたサウード家や中央アラビアやメソポタミアの部族らと連合してラシード家とサリフ村で対決するが大敗する。これにより、ラシード家はクウェート湾の一番奥にあるジャハラ村まで進軍するが、イギリスからのラシード軍の即時退去要求により、難を逃れる。なお、1902年、サウード家のアブドゥルアズィーズ・イブン・サウードがリヤド奪還に成功する。しかし、次第にアブドゥルアジィーズの勢力が拡大してくるとこれに危機感を抱くようになる。 1903年、インド総督カーゾン卿がクウェート訪問。翌年からイギリス政府の代表として政務官を駐在させ、ブーシール政務監督官の管轄下となる。1913年10月27日、インド総督に、ムバーラクを始め、サバーハ家の方では1913年当時から油田の兆候に気付いていたらしく、手紙の中でブルガンに見られるチャンについて触れている。ムバーラク死去後にブルガン油田が発見される。 1905年にはクウェート市南方のハワリで水量豊富な井戸が発見され、水供給が確保されたためにムバーラクの晩年にはこれまで2万人以下であった人口が3万5千人に増大する。また1912年にはクウェート最初の学校、ムバーラキーヤを設立する。 1914年、第一次世界大戦が起こる。サウード家の当主になり、中央アラビアでの覇権を確立していたアブドゥルアズィーズ・イブン・サウードより、トルコ側に付くか、イギリス側に着くかの相談を持ちかけられる。同年、イギリスとバスラ上陸作戦にあわせて決起し、クウェート軍がバスラ周辺を制圧し、イギリス上陸の援護をし、その代償にイギリスがクウェートのトルコとの断交及びイギリス保護下での自立を承認する約束をする。 1915年、イブン・サウードのアジマン族討伐に援軍として次男サリームを向わせたが、密かにアジマン族が負けそうになったら裏切るように指示。後にこれがイブン・サウードの知るところになってクウェートがサウード軍の侵攻を受けそうになった矢先に病死。ムバーラク死去の報が伝わるとサウード軍は退却した。王位は長男ジャービル2世が継承。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ムバーラク・ビン・サバーハ・アッ=サバーハ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Mubarak Al-Sabah 」があります。 スポンサード リンク
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