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ムルデカ大会(―たいかい、Merdeka Tournament)は、マレーシアで開催されている国際サッカートーナメント大会。ムルデカとはマレー語で「独立」の意味。マレーシアが独立した1957年に第1回大会がムルデカ・スタジアムで開催され、1988年までは毎年開催された。 ==エピソード== 1960年に東京オリンピックへ向けての強化の為、日本代表コーチに就任したデットマール・クラマーコーチの指導で、徐々に日本の実力が向上し、1963年の第7回ムルデカ大会で、総当たり戦の開幕戦でマレーシアを4-3、第2戦でタイを4-1、第3戦で南ベトナムを5-1で破り、3連勝。第4戦韓国戦で1-1で引き分け、最終戦台湾戦では0-2で敗れたものの3勝1分け1敗で準優勝を果たした〔後藤健生著『日本サッカー史 日本代表の90年 資料編』P55~P56、双葉社、2007年〕。この大会で自信を付けた日本代表は翌年の東京オリンピックでベスト8入りを果たした。 当時、マレーシアでは、マレーシアサッカー協会の会長を当代のマレーシアの首相が務めるのが通例で、ラーマン首相がマレーシアサッカー協会会長だった。第7回大会中にラーマン会長が主催したパーティーで、長沼健日本代表監督と岡野俊一郎コーチ兼クラマー通訳が、記念品の鎧兜をラーマン会長に手渡した所、ラーマン会長は涙を浮かべて、長沼らの手を中々放そうとしなかった。長沼らは不思議に思い、自分たちの席に戻った時に、日本担当のマレーシア協会役員にその理由を尋ねた。すると、役員は次のような裏話を語った。「大会の実行委員会で招待チームを決める際、日本はあご足つきで呼んでも弱いし(1959年のムルデカ大会初参加以来日本はほとんど勝てず、前回の1962年大会も1分け2敗だった)、観客動員も悪いから日本を呼ぶのは止めようという意見が大半だった。ところが、最後にラーマン会長が立ち上がり、『日本人は一度決心したら必ずやり遂げる民族だ。私の顔に免じてもう一度だけ呼んで欲しい』と力説した。会長の発言で、日本の招待を決めたら、日本は素晴らしいサッカーで連勝し、連日ムルデカスタジアムは超満員。だから、会長は感無量だった」。長沼らは非常に感激したという〔〔山本昌邦著『日本サッカー遺産-ワールドカップ出場舞台裏の歴史と戦略』P135~P136、KKベストセラーズ、2009年〕〔中条一雄-牛木素吉郎&ビバ・サッカー研究会公式サイト ">クラマー取材ノートから(20)ムルデカ大会と日本 中条一雄-牛木素吉郎&ビバ・サッカー研究会公式サイト 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ムルデカ大会」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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