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ムンフバティーン・ダワージャルガル : ミニ英和和英辞書
ムンフバティーン・ダワージャルガル[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ムンフバティーン・ダワージャルガル ( リダイレクト:白鵬翔 ) : ウィキペディア日本語版
白鵬翔[はくほう しょう]

白鵬 翔(はくほう しょう、1985年3月11日 - )は、モンゴル国ウランバートル市出身で宮城野部屋所属の現役大相撲力士、第69代横綱(2007年7月場所 - )。本名はムンフバティーン・ダワージャルガル〔「ムンフバティーン」(Мөнхбатын/Mönkhbatyn)は「ムンフバト(=父親名)の」という意味だが、日本語報道では属格助詞「ын/yn(-ィーン)」を省略して、単に父親名をカナ転写して「ムンフバト・―」と表記されてしまうことが多い(他のモンゴル出身力士の本名についても全く同様の傾向がある。詳細については、モンゴル人の名前#モンゴル国における用例も参照)。自身の名である「ダワージャルガル」は、ダワはチベット語(ཟླ་བ། zla ba,ダワ)で「月曜日」、ジャルガルはモンゴル語(キリル転写:жаргал, 文語転写:jirgal)で、「平安、幸福」を意味する。「月曜日の幸福」という意味。彼が生まれた1985年3月11日は月曜日である。〕(モンゴル語キリル文字表記:ラテン文字転写:''Mönkhbatyn Davaajargal'';日本相撲協会による公式表記は「ムンフバト・ダヴァジャルガル」)、モンゴル語での愛称は「ダワー」。得意手は右四つ、寄り、上手投げ。身長192cm、体重155kg(2016年1月場所現在)、血液型はA型。好物は焼肉と納豆、嫌いなものはあんこPen No.259より〕、趣味は読書、チェステレビゲームゴルフ。既婚。''、ラテン文字転写:''Mönkhbatyn Davaajargal'';日本相撲協会による公式表記は「ムンフバト・ダヴァジャルガル」)、モンゴル語での愛称は「ダワー」。得意手は右四つ、寄り、上手投げ。身長192cm、体重155kg(2016年1月場所現在)、血液型はA型。好物は焼肉と納豆、嫌いなものはあんこPen No.259より〕、趣味は読書、チェステレビゲームゴルフ。既婚。
== 来歴 ==
父親のジグジドゥ・ムンフバトブフ(モンゴル相撲)で、5年連続6度の優勝をした元アヴァルガ(大相撲の横綱に相当)で、メキシコ五輪レスリング重量級銀メダリスト(モンゴル初の五輪メダリスト)となったモンゴル国の国民的英雄である。母ウルジーウタス・タミルは元外科医でありチンギス・ハーンの流れを汲む家柄の出だという〔 毎日新聞 2014年11月23日〕。来日前にブフは10 - 12歳の時に遊びでやっていた程度で経験らしい経験はなく、バスケットボールに熱心に取り組んでいた。15歳になったころ、兄のバットホヤグが柔道の教師になったがダワージャルガルは「柔道はイヤだ。どうしても相撲をやりたい」と固辞した。ムンフバトは以前からそのダワージャルガルの意向を知っていたようだが母タミルは普通に勉学を重ねて学者にでもなってほしいと願っていたためダワージャルガルの決意を聞いた際にはショックで言葉も出ず、しばらくは入門するかどうかを巡って滅多にしない夫婦喧嘩もしたという。それでもタミルは内心「きっと激しい稽古が待っている。経済的にも大きな苦労を知らず、のびのび育ったダワーが、日本での厳しい修業に耐えられるはずがない。きっと、つらくて戻ってくるに違いない」と考え、早々と帰郷すると予想して入門を許したという。モンゴルの中等教育学校を卒業。
ダワージャルガルは初来日からその後2年半に渡り一度も帰郷せず日本で相撲に打ち込んだ〔横綱・白鵬のおかあさん ウルジーウタス・タミルさん:3 日本行き、反対でも黙って見送った 朝日新聞DIGITAL 2011年2月22日〕。
大相撲で活躍していた同じモンゴル出身の旭鷲山をつてに、2000年10月25日に6人のモンゴル人と共に来日。大阪府内の摂津倉庫で相撲を習っていた(同社の相撲部には以前、後に前頭に上がる大飛翔も在籍)。共に来日した猛虎浪立浪部屋)、千昇式秀部屋)、大河(式秀部屋)らの入門が決まるなか、小柄だった白鵬を受け入れてくれる部屋は最後までなかった。少年白鵬は当時日本語が分からなかった為か英語で"I don't want to go back..."と言って泣いたという。その失意の帰国前日12月24日、彼を哀れんだ旭鷲山が自らの師匠の大島(元大関・旭國)と会食中に相談し、大島は友人であった宮城野(元幕内・竹葉山)に受け入れを申し入れた。当時の宮城野部屋は文字通り弱小部屋だった為に厳しいしきたりも少なく、育ちの良い〔自著『相撲よ!』では「風呂にはシャワーと猫脚のバスタブ。映画によく出てくるおしゃれなタイプだ。モンゴルにいる頃は、これが風呂だと思っていたが、日本に来て入った湯船には驚いた。全然おしゃれじゃなかったからだ」と自身が育った裕福な家庭の様子を語っていた。〕白鵬には伸び伸びとやれる環境で結果的に良かったのだとされる。こうした経緯から宮城野が元十両金親に代替わりしたのちも、熊ヶ谷を襲名して宮城野部屋付きとなった先代宮城野の指導を内弟子として受けた(後に熊ヶ谷は再度宮城野を襲名して白鵬の師匠に復帰する)。
こうして角界入りとなるものの、部屋の先輩力士に「若くてすらっとしている子」という条件で連れてこさせた少年を見た宮城野は、父親の実績を知る由もなく、その小柄な体から大きな期待はしていなかったという。しかし一方で、大きな手足と腰、柔らかい筋肉などから、もしかしたら化けるかもしれないと思い、入門してからの2か月間は稽古をさせず、毎日吐く程に食べさせ、牛乳を飲ませた〔兄弟子の光法も同様であった。〕。宮城野部屋入門時から大関になるまで、宮城野横須賀後援会が横須賀市内で主催するサマーキャンプに毎年参加し、午前中は横須賀市大津の土俵で稽古を積み、午後は市内の福祉施設の訪問や商店街の夏祭り等で子ども達に胸を貸し、相撲体験を通して。サマーキャンプは、大関となる平成18年まで継続された。
四股名は、横綱大鵬柏戸に因んで柏鵬(はくほう)とする案があったが、色白だったことから白鵬と付けられた(幕内千代白鵬と四股名が比較されるが、命名は千代白鵬が先)。2001年3月場所に初土俵を踏むが、番付に名前が載った翌5月場所は身体の小ささもあり3勝4敗の成績で、後の横綱(しかも大横綱)としては異例の序ノ口での負け越しを経験する。しかし、入門当時身長175cm、体重68kgだった体は、食文化の違いを苦にせず大食漢だったことと熱心な稽古によって大きく成長し続けた。急激な肉体の成長と才能の開花に歩を合わせるかのように番付を駆け上がり、部屋で稽古を付けていた光法は、「あの白鵬って子、一晩眠るたびに強くなっている。2 - 3年後には化粧まわしや白い稽古まわし(共に関取の象徴)を身につける身分になりますよ!」と驚いていた。実際、皆勤して負け越したのは前述の2001年5月場所と三段目時代の2002年7月場所(3勝4敗)の2場所だけで、これ以降は休場を除いて負け越していない。
なお、幕下時代に朝帰りをし、土下座し謝り許しを得ようとするも、師匠は激怒し破門を切り出したことがあった。この時に部屋付きの親方衆や兄弟子たちが師匠を諫めていなかったら、白鵬は引退に追い込まれ、後の横綱・白鵬は出現しなかったとも言われている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「白鵬翔」の詳細全文を読む




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